2011年5月29日日曜日

湯浅誠 の 反貧困 を読了

夜逃げの話をよく聞くようになった。


夜逃げってすごいですね。 

朝出勤したら、 会社がもぬけの殻になってる。 行ったらなにもなかった。それはどんな心境なんだろう。

当然のようにあった日常が一瞬で無くなる。倒産は社員も当日まで知らないもんなんだね。


そんな兆候に気がつかないと被害はうけるのですがね。悪かろうが卑怯だろうが、損害はうけるので。
 





反貧困ネットワーク主宰

ちょうど内閣参与だった湯浅誠氏の本を読み終えた所だったので、心にぐっとくるものがあった。

なぜに日本はここまで貧しくなってしまったのだろう。

ワーキング・プア 働いているのに生活が出来ない層 

この本の論旨は的確だ。

この大不況のなか、貧困に陥るのは決して自己責任ではない。

あまりに多くの貧困に苦しむヒトが自己責任論を自分の信条にして、自力で頑張ろうとしていく

そして、社会の壁に跳ね返されていく、そして、自分を失っていく。

そういう人々をNPOとして支えてきたひとが湯浅誠だ。

1995年を境に社会システムが崩壊してしまった感がある。

もちろん、社会システムに乗っかれているヒトは

沢山いる。そちらのほうが多い。

でも、失敗のリカバリーを許すだけの社会的なリソースがもう余っていないのだ。


本自体は、湯浅誠の元に集まった経験談をまとめたもの。

だからどんなバイアスが掛かっているかわからないが、ただそこにそんな食うことのできない人々を

どんどんと生み出している日本社会のルポが書かれている。



貧窮は、現状の社会システムからの排除という。社会のリソースを分け与えられる地位にいないのだから。

第一に、教育からの排除、第二に雇用からの排除、第三に家族からの排除、第四に公的支援(生活保護等)からの排除

そして、ラストは、自分自身からの排除 それは自殺だ。 



自己責任の原則を忠実に信じているが、しかし社会から排除された人間がいる。


努力が足りなかった。人的資源を利用しきれなかった。時間を無駄にした。

うまくいきれない。孤立を深めていく。それに自己嫌悪をしていく。

生存競争を重視する自己責任原則を信仰している本人は、つぎにこう考える。

そんな自分が生きる資格があるのだろうか?自己責任で頑張ってきたのに上手くいかなかった。

自己責任のラストの方法は、死んで自分の人生を幕を引くこと。それで責任をとると考える。

長い間、社会からの拒絶され続けているため、内部で考えるだけになるのだ。

当然、それは一方的なわがままな思考になる。 

外からは、こういう批判が生まれる。 だから、弱いんだ!自殺しちゃうんだ!駄目だな!

自己責任で自殺したんだからイイんじゃない? 見事に自己責任を社会全体で完遂しきった。

それは、心地良くはないが、社会的に主要な思想をきちんと踏まえて誰もが行動した。


自己責任が貫徹された世界。日本にももちろんあった。

それは、中世日本が荘園制崩壊から続いて、太閤検地まで織豊政権と江戸幕府 で描かれた日本だった。

自治と封建領主と自分たちの武力で守っていたものを、信長、秀吉、家康が

法律と中央集権化で、一定の平和まで治めたのだ。天下静謐を誰もが願っていた。


ただ、現在に、主流となった思想、自分たちの行動の指針になるものは、いまだに見えてこない。

web世界が発達することで、市民という概念を梅田望夫が持ち出しているとも思う。

いろんなヒトが今後の社会のあり方に提言をしているのだ。




思想家、哲学者ってなんの仕事をしているかわからなかったのだが、こうやって社会的な主流となる


考え方や行動指針を提案しあっている人々のことをいったのだな。



湯浅誠氏は 懐かしいが新しい市民社会をつくっていこうと提案している。

ゆとりと溜めのある社会、助け合いの社会、互助精神、

人間がすべり台のごとく転落していく社会をどうにかして、正していこうとする人だったのだな。

年越し派遣村



 の村長というイメージしかなく、胡散くさい人だと想っていたのだが、

人はイメージで見てはいけない。行動で見なくては!それを考えさせられた人物だった。

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