2011年6月5日日曜日

人生で、取り戻せないものを失った時に読む本





ヴィクトールフランクル それでも人生にイエスと言う 再読


この本は、なにかを失って二度と取り戻せないとき、読む本。
若さでも、子どもでも、親でも、失業でもなんでも、命でも、もう取り戻せないと感じたときに読むと心にすっと落ちてくる。




自分が、自分の力で変えられない運命に直面したとき、どんな態度を取るか。


自分なりの要約は、
人間性を無くし、死と隣合わせになった極限で残ったのは意志のみ。
意志をどう行使するか。そこにしか未来はわからない。
今が歴史になっていく。将来から自分を見ないで。
過去からの積み重ねは強力だけど、意志の力で跳ね返して。
彼方の人生は運命に翻弄されるが、
彼方にはどう生きたかの証は与えられるのは、彼方しかいないんだ。


頑張れば、人生を変えられるとは言わないし、そんな事をできるようなユダヤ人の状況でもなかった。
3.11で家が流されて、頑張れば失われた命が戻るわけでもない。


魔法少女ほむらちゃんみたいにやり直しは、効かないのだ。


でも、そのなかで唯一出来るのは自分がどういった態度で生きたか。


フランクル先生のカコイイところは、現在時点を一番の出発点にしてる。


人生や世界に意味はあるの?ないの?わからん、論理的には。でも、それを超えて覚悟、態度は示すことはできる。


そして、意味を作ることはできる、可能性を選ぶんじゃなくて、可能性を作るのだ。


世界は与えられるものじゃなくて、作る物だ。と、第二次大戦で傷ついた側のひとが言っている。


それで、世界って意味あるのだろうか?


あなたが与えてください。 


最後のいまわの時に、ギリギリでもどういった態度を取れたかどうか




最後の審判のときに、神様からこう生きろと与えられた問を上手くこなせたかどうかではなく、


自分で作った問を自分で裁き、その裁きを神様が追認してくれる感覚だ。


別に、無神論ぽい醒めた見方をしているわけでもなく、特定の宗教の教義を原理的に守るのではなく


自分自身の宗教心で、自分自身を裁き、それを 生命の上位概念たちが その裁きの結果を


徹頭徹尾、支持してくれる感覚。






どんなに良いことを考えていて、やる気になっても人間は怠惰な生き物だ。


それに、自分たちでつくる意志だと決めたとき、その責任の重さにクラクラって来て、逃げたくなるよね。


わかる。とても今を生きることは責任を伴う重い事柄だし、自分自身で下した決断は、二度と取り戻しはできない。


過去には戻れない。だから、苦しいと思う。


でも、みんな不完全だし、その為に人間はひとりで生まれてこれない。ふたりから生まれてきて、まわりには沢山いるのだ。


だから、人生にイエスと言おう!

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