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2015年3月21日土曜日

ハマちゃんと、寅さんから学ぶ生き方レッスン本(石隈利紀先生)




寅さんとハマちゃんに学ぶ助け方・助けられ方の心理学―やわらかく生きるための6つのレッスン

石隈先生のお話を一度だけ聞かせてもらったことがあった。
なんと柔和な先生なのか。優しくて人柄に魅了される。石隈先生と話していると、表に出す感情はとてもフレンドリー、優しさに満ちている、かと言って清廉君子でもないので、イラッとしているところもあるけれど、その感情は訓練によって表に出さないようにしているようにも感じる。

この本で石隈先生のバックボーンを知ることが出来た。
片目の視力がほとんど無いこと(全く気が付かなかった)40歳まで仕事がなかなかうまく行かなかったこと。アメリカ留学で、自分のことを誰も知らない!という開放感の元、上手くキャリアを形成するきっかけを得たこと。やはり

旅と見知らぬ土地は人を自由にする!!

こんなに苦労されてきたのかという感嘆を覚える。筑波大学の副学長だったりするのは、そんな経験が積み重なっていたんだ。研究者かと思っていたらこの先生はカウンセラーの実践的な経験を多数積んでいた。それを研究成果として学校カウンセリングの理論にまとめた人だったんだ。

フーテンの寅さんと、釣りバカ日誌のハマちゃんを例に援助者のあり方、人のあり方を類型化した本。

寅さんは、百人いたら百通りの接し方をする。

ハマちゃんは、百人いたら一つの接し方をする。

寅さんは、悩んでいる人に共感し、自分の失敗談を話し、そしてその人が危機の時、一生懸命、自分の持っているものをなりふり構わず投入する。

寅さんは、とても心が優しいのだ。その優しさを劣等感から来ていると考えている。中学の時から他人に侮辱され、差別されながら、継母との折り合いの悪さで、テキ屋として旅人になった。

反対にハマちゃんは悩んでいる人がいたら、釣りに誘う。まずもってその人と遊ぶ。楽しむ。そして人生にはいろんな側面があること、悩みによって視野が狭くなっている状態を遊びや芸、エンタテイメントで広げて元気にしてくれる。

なにぶん、ハマちゃんはスーさんの会社のサラリーマンであり、営業マンという日常的な人でもある。


寅さんは、非日常状態の時に現れるヒーローであり、旅人として心の傷を持っている。
ハマちゃんは、日常にいる太陽のような人であり、遊びの名人で人を元気にしてくれる。

寅さんのほうがウェットで本格的にその人と共感し、向き合い、
ハマちゃんのほうが、人との距離感を適切にとり、心よりは行動で巻き込んでしまう。


そんなハマちゃん、寅さんの例を使いながら、この本で言いたいことが4章から始まる。
みんなが資源、みんなで支援ーチーム援助ー

ここからが援助者(カウンセラーを含め、会社なら同僚、上司、家族、人事、学校なら先生、家族、友達、等)は被援助者と1対1で向き合うことはしないで、チームとして向き合う方法を説明する。

ここからがこの本の本番。

援助チームの作り方は「話し合い上手」(話上手ではない!)

→苦手の人とも人間関係を良好に保てる
→チーム参加者が傷つかないように配慮できる
→自由に話しやすい雰囲気を作る
→自分とは違う考えの人の意見でもじっくりと聞ける
→反対意見の人に対しても上手に自分の意見を言える

この5つを前提としてチーム作りことを薦めている。
その為に寅さん、ハマちゃんの例を出していたのだと思う。
(ハマちゃんと寅さんでは、介入の仕方、援助の仕方は正反対の人間だ)
釣りバカ日誌、男はつらいよ の映画評論としても最高に面白いのが凄いが。

ただ、この本ではそのチームつくりの方法論までは書けなかったのだろう。
短い150Pにも満たなく行間も広すぎる本だ。

チーム援助の仕方を状況によってふたつのパターンを紹介していた。

寅さんの時のように、なりふり構わず、不器用でも一生懸命につぎ込み、持っているリソースを全てつぎ込み、そこにただいる人も、必要なら相手の事情よりも危機回避のために巻き込む。その一生懸命の後ろ姿、人の純粋さで回りの人が元気になり、それぞれの人生の岐路に立ち向かう。

ハマちゃんは、釣りを通じた友達のネットワークがあり、それぞれに役職は違えど皆にタメ口で対等な人間関係を築いていっている。そして誰とでも仲良くなれる。そのネットワークを使って、人に頼み事をして問題解決に挑み、行動に移す。

寅さんは、危機に実際に介入するのだが、
悩んでいるヒロインはその後ろ姿を見て元気になり、直接は働きかけない。

ハマちゃんは、悩みを持つ人に対して遊び(釣り)に誘って仲良くなり、
最初は直接は働きかけないのに、最後は行動することによって解決していく。

チームによって、状況によっていろんな風に変わっていくこと、その柔軟性を伝えてくれていた。

そして、副題にあるやわらかく生きるための6つのレッスンというのは、

1・人は苦戦している人を放っておけないから援助する
  人は苦しい人を見ていると、やっぱり自分も苦しくなってしまう。
  だからこそ人は人を助ける。だからボランティアは究極的には、利己主義なんだ。

2・だからこそ、困った時は援助をもらう
  自分だけで頑張るのではなく、人からの援助をもらうことも自分に許してあげる

3・人には個性があることを認識する
  その個性というのは、他人とくらべてこういうのが得意というのではなく、
  自分の中で得意なこと、不得意なこと、リラックスできること、信念など
  それぞれの強み弱みがあることを知っておくと、自分自身が楽になる

4・ネットワークで支え合う
  人は人の中で生きていける。それが支えでもあり、喜びでもある

5・人間関係に笑いを活かす
  寅さんは、自分の失敗談を話し、ハマちゃんは芸だったりダンスをして笑わす
  なぜ笑わすか。苦戦している人はどうしても自分を卑下してしまう。
  笑いには相手に対する自分の位置を一段さげる効果がある。  
  苦しんでいる人にはそれでちょうど対等になるのだ。

6・少しだけ助け上手・助けられ上手になる
  基本的には助けるというのは少ししかできなく、本人が自分のペースで
  少しずつ立ち直る。その際、一緒にいてくれる寅さん、エネルギーをくれるハマちゃん

そんな6つのヒントをこの本はくれた。

とても読みやすい。男はつらいよ、釣りバカ日誌、の評論としてもすごく面白い。
そして、人間関係のスクールカウンセラーの理論と実践家としての人間に対する洞察も読むことができる。

機会があったら石隈先生の講演会は行きたい。本で読むより実際に会って話を少しでもさせてもらえると、この人の柔らかさが半端無く伝わってくる。超絶忙しい人だが、なにかの機会で講演会をまた聞きに行きたい!!









2014年8月2日土曜日

ダンバー数と志向意識水準をアオハライドで変換を試みた



ダンバー数 友達何人できるかな?

 斜め読み二回転 した。
よく言われる目次読め、目次は熟読せよ、あとは一度パラ読みせよ
そこで引っかかったら、今度は熟読、メモを作りながら読め、
っからなかったら、その本は自分には早いか無用かどちらかだというのは、使えた。
飛ばし読みってもったいないと思っていたけれど、佐藤優の奨める読書法はだいぶいい。

本は雑多な科学エッセイ。
進化論、生物学をベースに脳科学を援用しての
心理学、人類学に対しての試み
でも、単純なエッセイ。
 納得出来るのもあれば、首をかしげるのもある。そのなかでメインコンテンツの一つ


友達何人できるかな?
答え150人です。
例外的な人間はたくさんいます。 その例外はたくさんいます。
なので、ごくごく人間の一般的な傾向です。
人間にとって、人との親密さの関係は、会話量で測ります。
もしくは、家族、親族、地縁に関しては遺伝子の繋がりの密度や社会上の利害関係を有しているので会話量では決まりません。
会話できる数は限られます。 最も大事な人間、大事な意思決定を共にできる人間が5人(パーキンソンの法則)
この人が死んだら自分が喪失感でおかしくなると思う人間は15人
そこからよく付き合う人間が30人、
その外に顔なじみやたまに会う友人が100人 合計で150人  ここが人間がきちんと付き合える限界値
そこから部落としては小さいので、3倍の500人位で共同体作る
都市になるとその三倍の1500人
アテナイの民主主義参加者の限界値が5000人
おお、FacebookのMAXと同じだ!
Facebookもよく接する人間のタイムラインしか表示されない仕様なので、
勝手に人間関係のランク付けされているんだけれど。


もうひとつ。人が動物と遺伝子情報ではそんなに違わないなか、
が人と人間を分けているか、 心の理論 (志向意識水準)の紹介

これは、大人なら大体できるが、意識してないとこんがらがる。
1次意識 私は、思う。
2次 私は、思う。あなたがこう思っていると。
3次 私は、思う。私がこう思っているのだと、あなたが思っていることを。
4次 私は、思う。あなたがこう思っていると、私が思っているのだと、あなたが思っていると。
5次 私は、思う。私がこう思っていると、あなたが思っていると、私が思っているのだと、あなたが思っていると。
6次 私は、思う。あなたがこう思っていると、私が思っていると、あなたが思っていると、私が思っているのだと、あなたが思っていると

私はあなたが好きだ。
私は思っている、あなたが私のこと好きだと思っていると。
私は思っている、私があなたのことを好きだと、あなたが思っていることと。
私は思っている、あなたが私のこと好きだと思っていることを、私が思っているのだと、あなたが思っていることと。
私は思っている、私があなたのことを好きだと、あなたが思っていると、私が思っているのを、あなたは思っているのだと。
私は思っている、あなたが私のこと好きだと思っていることを、私が思っているのだと、あなたは思っていると、私が思っていると、あなたは思っているのだと。

アオハライドで変換してみた。 アオハライドのOP
http://www.youtube.com/watch?v=4YRNVuOqfaM


私、双葉、高校二年生女子。同じクラスの初恋の相手洸が好き。
すべて双葉視点

私は洸が好き。

洸は私のこと好きだと思う。

私が洸のこと好きだということを、洸はわかってるんじゃないかな、と私は思う。

洸も私のこと好きで、両想いなれたのかなと私が思っていると、洸は思っているんだろうなって、私は思う。

私が洸のこと好きだということを、洸はわかっているんだと思うし、私がそう思っているのを、洸は知っているんだと、私は思う。

洸も私の事を好きで、もしかして両想いなれたのかなと私が思っている事を、洸は感じているんだと、私が思っているんじゃないかって、洸が思っていると、私は思う。

合っているか不安。

この志向意識水準が人間と類人猿の大きな違いでっす!て内容な本なんです。

で、物語にすると、頭はいりやすいです。数字の抽象的な扱いは難しいけれど、
初恋の相手に3年ぶりに会ったアオハライドの主人公 双葉に立ってみてようやく心の理論(志向水準意識)がすこしだけわかりました。

2014年1月25日土曜日

いいことから始めよう スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント読了




1995年のアメリカのラビ(ユダヤ教徒の牧師兼精神科医)がチャーリーブラウンの漫画を引用して、ライトに人生の生き方を示してくれる方法。

この本のモットーは、単純。自分の人生において、大事なのは自分に対する自分の正当な評価をもつこと。

自己評価が低いと、卑屈になり、その反動として傲慢になったりする。

自己評価が高いと、人の話を聞かない迷惑な存在になり、迷惑をまき散らす。

だから正当な自己評価、良いところもあるし、わるいところもあるし、

人間は周りが考えているより想像よりは飛び抜けて優秀ではないし、

自分が考えているほど、無能ではない。

そして、それはその時の感情のあり方によって無能感だったり、万能感をもってしまう。

ただ、この本のよわいところ、こお正確な自己評価を自分では見つけられない

それが大多数の人間だと思うのだが、その時は専門家に相談という回答に終止。

それが、精神科医としての良心だということは当然理解できる。

実際、人間は様々なオリジナルな問題を抱えていて、一緒くたに解決できる方法はない。

でも、この本は、自己評価を軸にしながら、その見極め自体は踏み込まなかった。

そこが悲しくて、流し読みで終わらせてしまった。

それと、過去をウジウジと考えるチャーリーブラウンだったり、

ルーシーのはた迷惑さ、

「ピーナッツ」というチャーリーブラウンや、スヌーピーを生み出した

チャールズ・シュルツ を 読もうという動機付けにはなる。

この本の価値は、「ピーナッツ」という漫画には、偉大な人間観察模様が書かれている。

それを教えてくれ、それぞれの解釈で作品を分析していいよ。

ということを示した一点にある。

2013年6月21日金曜日

「やさしさ」と「冷たさ」の心理 読書メモ

やさしさと冷たさの心理



自分の肉体的、知的な弱点を相手に対して恥ずかしいと感じない関係が安らかな関係である。

つまりは、自分の弱点を自分で認め、それを自分に対して隠してはいけない。

その弱点をみても相手が引かない関係こそが心理的成長には大切になってくる。

他人に甘える人は、基本的に自己中心的でわがまなである。そしてその感情自体をきちんと認める必要がある。

甘えがあるというのは、他人への欲求が強いことである。この加藤諦三氏の本では、基本的に親の愛に満たされてきた肯定的に生きた人と、親からの欲求を果たすために自分自身を殺して生きてきた二種類いると考える。
そして、自分自身を殺してきた人は、大人になっても甘えの欲求が満たされていないから、他人の注目を求めたり、虚栄心でみたそうとしたりするという話が基本線にある。
そして、甘えの欲求が満たされなかった人は自分の情緒が2,3歳児くらい未熟な部分を残しているということを認めなさいという。その認めることができてから次の行動に移ることができる。

そして、人生において最も大事なのは、自己評価、他人に実際に愛されているかどうかは別として他人から愛されるに値する人間だと本人が感じているかが大事になってくる。
そしてそれは、自分の子供時代に周りにいた大人たちの目をどれだけきにしたか、愛情を受けたかによって決まってくる。ただ、その子供時代の感情をおとなになったいまでも振り回されず、自らに自らを肯定し、常に勇気づける必要がある。
自己評価が低い人は傷つきやすい、他人といるとなんだか落ち着かなし、用事が終わるとそこにいてはいけない気分になるのは、単に自分が小さい頃、自信を持つに必要なメッセージを与えられなかっただけだと頭で理解することである。そして自分は落ち着かないが決して相手は自分が感じているようにはかんじていいないとまずはっきり自分に言い聞かせることである。
そこで人付き合いのコツとして、自分は望ましい人間ではないと感じている人は、自分に自信を持っている人と接することである。自信がない人が自信を持とうとするときよく失敗するのは、心の底での自分は必要とされていいない感じ方をそのままにして自信を持とうとするからである。
自分に自信がないタイプのひとは、本当に不思議と自分のようなタイプを軽蔑するような人と接してしまうのだ。心のそこで自分を軽蔑していると実際の自分のようなタイプの人間を軽蔑する人に惹かれていってしまう。それは大変不幸なことである。


自分にたいして失望すると起こることは、自己断罪でる。自罰は無価値観や屈辱感からくる苦しみを消す最も有効な手段だからだ。自分をけなすことで、自分の持っている自己失望感を満たすというやり方をとってしまう。自分に自信がなければないほど他人や自分を尊重するひとと付き合わなくてはならないのに、自分に自信がないほどあなたを軽蔑する人と付き合ってしまう。

どうすればいいか?自然な感情に身を任せられる、防衛的にならなくてもよい人が恋人であり、友人であるとも言える。絶えず生まれてくる自分のなかから自然に湧いてくる感情に身を任せること、その自然な感情の流れに身を任せられるから親しい人といるのは楽なのである。自己実現的関係において大切なのは、私は貴方がこんなに好きだではなく、私は貴方をこんなに大切にしたいという思いにある。そして、内面世界を鍛えて来なかった人は親密さへの恐怖心がある。あまり近しくない人とはうまくいくが、親密になりすぎるとその人に不快感がでてくる。他人と親密になれるということはそのひとが自分を持っているからだ。

嫌われるひとというのは、心のなかに自信がないのに、自信があるふりをする虚勢を張って生きている人だろう。甘えの欲求がみたされていない。虚勢を張っているひとに必要なのは、あなたはそんなに虚勢を張らなくてもいいですよと言ってくれる存在である。
心の底で自分で自分の実際を拒否したひとは不思議というか当然というか、実際の自分を拒否するひとに惹かれていく。甘えていたり劣等感が強い人というのはマズローのコトバで言えば、欠乏に動機つけられているひとである。
自己が欠乏した人間というのは、他人に対して自分の感じるように感じてはいけないし、自分の価値観を持ってはならず、その人に期待するように感じ、期待するように行動し、期待したいようなことをいわなくてはならない。
自己実現したひとというのは、水が流れるからといって、岩が固いといって文句をいわない。このように自然を受け入れるが、同じように他人も受け入れるのが自己実現した人間である。

自分のおもな満足は他人の自分に対する反応によって得られるのではなく、自分の内面的な成長によって得られる。
繰り返しになるが、甘えている人や劣等感が強い人は本当に自己実現をしている人と付き合うことが大切である。

まず、どうすれば自己実現をできるか。自責の念、自己不完全感に悩む人はまず小さい頃から自分に与えられたメッセージを言語化することである。仮に子供が親から責められる。しかし親から責められていると感じることも禁じられている。子供は、強制的に自発的に反省の念をもつように仕向けられる。そういったことをひとつひとつ紐解いていくことが必要になる。
何の理由もないのになぜか今のこのままではいけないと自分を責め立てるのは禁じられた感情があるからだ。その感情はなんなのか。自分は被害者の立場に立たされながら自分は被害者であると感じることを禁じられ、逆に加害者であるとかんじるように強制された。なぜそのような立場を認めたのか。親から自分の存在を認めて欲しかったからである。まずじぶんが被害者であったことを認めること、そして、自分を責めたり、自分を罰したり、自分を卑下したりすることで他人に立派な人と認めてもらおうとするゆおなことを止めること。そして他人の不快な感情に責任をもつ必要がないことを自分に言い聞かせることである。そしてほめられたら喜ぶ。そして自分で自分に禁止していることはないかを振り返る。何の理由などいらない。行きたいから行く。それで十分である。自分が楽しむことは決して人を傷つけない、人間は楽しむことをしていい。ただ、小さい頃楽しむな、仕事をしろというメッセージをあまりに受けたので人によっては楽しむことに罪の意識を感じる。
他人の褒め言葉を素直に受け取ることを自分に許すこと、行きたい所に行くことを自分に許すこと、お金があれば自分の買いたいものも買うことを自分に許すこと、お酒を飲んで楽しむことを自分に許すこと、時に怠けることを自分に許すこと、それらに口実を作らないい事 お前はお前であって構わないと許可すること とにかく自分が満足すること、自分が幸せになることを許すことが大事になってくる。生きることを思い切り楽しむのは良いことだ。幸せ一杯になることは良いことだ。うれしい時には思い切り嬉しさを表現することは良いことだ。そして自分を惨めに見せることで他人の好意を期待することを止めようと、自分に約束することである。
自分の内なる幼児性に気づくことは大切である。自己実現とはそのように自分の内面の真実にひとつひとつ直面していくことでもある。なんだかわからないけれど不愉快だというとき、いったい自分はなにを自分自身に隠しているのだろうかと、一体自分はなにから目を逸しているのだろうかと考えることである。

ひとと親密になれる能力のあるひととは、甘えの感情が満たされ、そのあとほっといてくれという孤独の欲求が満たされ、それがたっせいされてから人と親密になれることができる。
内面のあるいと、家にいると身を固くしてしまうひと、それはまだ自分の親との関係が精算されていないひとである。いろんな点で親とのあいだに未解決の問題を抱えている人である。親離れできるとは、心理的に自立できる、自分で自分を頼りにできるということである。ひとりぼっちになっても心細くないということ
まず生きるためには、社会的挫折というものを見がちだが、心理的に挫折したのはどこだったかということをきちんと見極めなくてはならない。それができて情緒的に成熟することが出来る。

自分をかくしているひとは、他人の好意に甘えられない。そのひとの自己無価値感からか、自分の身勝手な利己主義を隠している。そういう場合、常に心の底にある自分を自分にも他人にも隠して生きている。心の底では自分は他人の好意を受けるに値するような人間ではないと感じている。そうすると他人の好意に接すると不安になる。また、そういうひとは自分がしっかりとその集団に所属しているという感じを受けることができない。自分の周囲の人々、或いは貢献するからこそ、その仲間に受け入れられていると思っているのである。自分がいては迷惑だ、すまないというのは自分を拒否しないでくれと同義語になる。そういうひとは自分が自分のままで受け入れられ愛される共同体を小さい頃持てなかったのである。共同体は企業のような機能集団とは違う。共同体はいるだけであんじて売れ入れられることをいう。相手の目的に叶わなくても自分はあいてに受け入れられるのだということを知った時、人間は救われる。それこそが愛と言う名にふさわしい愛なのである。自分のやりたいことと、相手が自分にやることを期待していることが違った時、自分のやりたいことをしてしまうのが相手の好意に甘えることである。いま、目の前にいるこの人は自分の周囲にいた我執のひとのように、自分が尽くさなければ激しく拒絶するひとではない。自分が尽くさなくては私を相手にしてくれないという人ではない。私はこのひとの期待を叶えようとして緊張しなくてもいいんだとかんがえられるようになれるか。
そして以外に多くの人が他人は愛されても自分は愛されないと感じている。そんな被害妄想的な意識が案外多くの心のなかにある。

最後に、自分を頼りに生きようと本気で心がければ、貴方を愛してくれる人と出会えるかもしれない。しかし、自分を頼らず捨てられる不安でいきるならあなたはいつも犠牲者のままだ。ある人々との別れというのはたとえどんな人であっても寂しいものである。しかし、その空白はこれから出会う人々によって充足していかなかればならない。
自分が言っていることの嘘に自分が気づけばほとんどのことはうまくいく。



2013年6月12日水曜日

河合隼雄 日本人とアイデンティティ 読書メモ




河合隼雄
日本人とアイデンティティ 読了



青年期に敗戦を迎え、世界に負い目を感じた
その後、西洋崇拝、日本嫌いになったが、
いくら努力しても自分は日本人であることを
認めざるえない。だからといって日本人は
素晴らしいという愛国者になるのではなく、
日本人は日本人なりの特徴を自覚しつつ
それを基にして国際性を持たねばならない。

欧米人が個としての自我をもつに対し
日本人は常に自他との相互関連のなかに存在する

欧米人が男性像ならば日本人は女性像で表す

日本人としてアイデンティティを確立するには、
西洋の文化を取り入れざるえないなか、
どうやってそれを文化のなかに消化しきれるか
にかかってくる。そのためにも、
もっと一神教の考えに取り組む必要性がある。

人間は様々なことを成し遂げることが出来る。
それでも人は死ぬ。そのとき、仮に持っていけると
というものがあるならばそれは「たましい」なのかと
仮定する。=それは普段意識できない無意識の集合体のことを指す

フロイトが幼児期に注目したのに対して
ユングは人生の中年期、老年期に注目した。
ひとは成人以後も一生発達していくと捉え直した。

日本には、西洋の考えかた、そして東洋の考えかた
その両方が持ち込まれており、生きていくためには
どちらか一方に与するのではなく、どうにかして
それらを統合するという創造を行わねばならない。

例えば場の論理として、全体のことをかんがえて自己主張を
抑えてでも場の平衡状態を保つ必要がある
反対に、個の論理では各人の自己主張を明確に言語化することで
平衡状態を作り出すことを目指す。

どちらが正しいというのではなく、二律背反したものをどうにか
統合していくことが、創造するということになる。

自己実現とは、単純な表面的な幸不幸ではなく、意識を越えた
無意識のうちに避けて通れないとおもわれる行動や相手を選んでいる。
それは、人間のもつ無意識の大きな流れであり、意識だけでは
対処することはできない。その大きな流れの中に自己がいるということ
を認識する必要がある。結果として、表面的には不幸になることも
あるが、精神的自己実現的には是となることもある。
が、対峙するとき必ず常世の幸せというものを願う必要がある。
その願いがあるからこそ、自己実現という捉えがたいものに
ひとつの形をあたえることが可能になる。

コンプレックスとは、自我の維持に危険を及ぼすものを意識しないが
明確に存在するものを心の奥底に眠らせ、それによって自我は統一性
を保つことができるが、無意識のなかに危険性は放置されたままになる。

コンプレックスは感情とつながり、意識とは相反する喜怒哀楽を表現して
しまう。ただ、コンプレックスになるということは、自身の人生にとって
大事なもの、危険を感じるほどのものだったため、これと向き合い、
自我との統合をすることでより発展的PROCESSに乗ることができる。

コンプレックスは基本的には、自我では捉え切ることができない。
そのときに自我が低下する夢の世界に飛び込む必要がでてくる。
夢がコンプレックスに対してなにを言っているのかが知りたく
なにがコンプレックスであるかはさほど重要ではない。
コンプレックスが個人の人生にどんな影響を与えているのか
そちらのほうが重要視する必要がある。

ただし、コンプレックスは簡単に捉えられるようなものではなく、
むしろ自己のなかにもう一人の自分を抱えていて、彼と対話するように
するように接する方が建設的になる。



想像力とは、あらゆる創造活動の源泉になっている。
そこにはどれが正解ということはなく、むしろどんな問題を探し出してくる
かそのことのほうに重点をおくべき。
その際、創造のためには、抑制者、または制約が必要となってくる。
それに対するぶつかるエネルギーによって対立によって物が創造される。

人間にとって己を越えた存在というものを知り、それとどう向き合うかは
大きな課題だった。己を越えた存在とのぶつかりは大変危険でそのなかで
死とも密接に繋がることもある。そのために、人間は儀式という方法を
開発した。
その儀式を聖と呼んだ。そして日常を俗とした。
その日常を脅かす存在として、自由である遊びというものができた。
聖も遊びもどちらも日常とは対立しているが、遊びは日常が強くなると
すぐに砕け散ってしまう存在でもある。
聖⇒日常⇒遊びという階層が存在する。

自分がこの世で生きていくためには我々自身を組み込んだ体系をもたねばならない。
自然科学は強力に世界を発展させてきたが、客観性ゆえに自己の入る余地がない。
それをイデオロギーという他人の体系ではなく、自己の中に世界と自分を組み込んだ
物語を作っていかなくてはならない。



その際、物語とはお伽話という形で語られる。それは表面的に見える世界のもうひとつ
別の世界を映し出すものである。
そこに語られる物語は、危険であり死と生の再生の物語が多数占めている。
人は何度も精神的に死に、そして生まれ変わり成長を続けていくからだ。
物語には、なにかを放棄する瞬間だったり、対決する瞬間が書かれている。
それは自分の人生のなかでも行わなくてはならないことを物語として先人たちが
書き示してくれたものだとも言える。
そこには、日常とは別の価値観が入っている。例えば老人とはなにもできない非生産的
な存在として捉えていることがあるかもしれないが、物語の世界では
なにもできないからこそ価値があるというふうに捉え直されている。


いまの人たちは、やるべきこと、やらねばならないことが多すぎて、やりたいことを
ないがしろにしている。やりたいことこそが心身ともに全人格が関わってくるので
それによって心が回復してくる。好きな事は人を活き活きとさせる。

河合隼雄はユングという人物の日本への紹介者ではあったが、
彼自身の心優しい文体で、魂の問題に迫っていき、間違っているのかもしれないが
自分の中ではたくさんの知見を得、また救われることが出来た人だった。


生きとし生けるものは全て必ず亡びるが、出来うる範囲で精一杯生きた生命に後悔はない。

死ぬときに後悔すること25読了

健康医療編

健康を大切にしなかったこと

たばこを止めなかったこと

生前の意思を示さなかったこと

治療の意味を見失ってしまったこと

心理編

自分のやりたいことをやらなかったこと

夢をかなえられなかったこと

悪事に手を染めたこと

感情に振り回された一生を過ごしたこと

他人に優しくしなかったこと

自分がいちばんと信じて疑わなかったこと

社会生活編

遺産をどうするか決めなかったこと

自分の葬儀を考えなかったこと

故郷に帰らなかったこと

美味しいものをたべておかなかったこと

仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと

行きたい場所に旅行しなかったこと

人間編

会いたい人に会っておかなかったこと

記憶に残る恋愛をしなかったこと

結婚しなかったこと

子供を育てなかったこと

子供を結婚させなかったこと

宗教哲学編

自分の生きた証を残さなかったこと

生と死の問題を乗り越えられなかったこと

神仏の教えを知らなかったこと

最終編

愛するひとにありがとうと伝えられなかったこと


ちょっと前にベストセラーになった死ぬときに後悔すること25 読了




ほぼほぼ目次を見れば言っている内容は理解できる。

健康を害するとなにもできなくなる。ガンは早期発見がベスト
そのためには、年に一度きちんとした人間ドックにかかること
怪しいサプリメントは効果が信用出来ない。
寝たきり、喋れなくなる前に生前の意思を表明してくれる

心理的には、 人生はあっという間だった
そのために自分の気持ちに嘘をつかない。
命の時間は決して長くはない。
人の心を惹きつけてやまないのは、やりたい放題の人生を送ったほうが
自分の自由に生きた人のほうが尊敬はされないが、愛される

夢を叶え切れなかったことに対しても後悔する。歳をとるたびに可能性が
へっていく。そのなかで夢を持ち続けられなかったことに後悔する。
中途半端だというのが、一番後悔する。

感情に振り回されず、平静の心を保ち、立腹することはしてはいけない。
他人に優しくすることと、生の終わりを敗北ではなく、完結と捉えるならば
死は恐るべきものではなくなる。

社会的には、葬儀の方法、遺産の分配も考えておく必要がある。
そして、死の間際には、過去を振り返ることが多くなるので
故郷に戻れるうちに戻っておくことも必要となる。
仕事一筋ではなく、趣味をもっておくと、己の糧になってくる。 
旅行も行きたい場所に行っておかないと後悔することになる。
悩みがあるなら旅にいけ!

人間としては、会いたい人がいたらすぐに会いに行け
会いたい会いたいと思っているうちにすぐに数年が過ぎ去ってしまう
本当に記憶に残るような恋愛をしてください。
結婚することで、ひとつの形を残すことができ、後々の後悔をしないですむようになる。
独身者の場合、子供を育てなかったことに対してすごく後悔をするようになる。
自由と孤独はいつも隣り合わせで、どちらかを立てればどちらかが立たない状態になっている。
子供が結婚していないことに対しても後悔の念をもつひとが多いことには驚いた。

出来る限り人生の総括は早めにしておいたほうがいい。
自分の生きた証でなにを残したいのかをきちんと考えておくべきだ。
そして自分の生の意味、死の意味をきちんと考えておくほうが後悔しなくてすむ。

そして、愛する人にありがとうといえなかった後悔
愛しているという言葉は魔法の言葉 


生きとし生けるものは全て必ず亡びるが、出来うる範囲で精一杯生きた生命に後悔はない。



2013年6月3日月曜日

本当に人生観が変わる本 箱の法則

2日で人生が変わる「箱」の法則 読了

前作も読んだけれど、自分的には続編であるコチラのほうが気に入った。
サラディンがエルサレム奪還のとき、虐殺を行わず、相手が約束を反故にしても
かれはそれに対して憤りもせずに敵に対してさえ温情を見せた。
サラディンの成功の理由はこの本では「心が平和だったから」と言っている。

心の状態が敵対的か平和的であるかが最も重要と説く。
それを決めるのは心のあり方だという。
他人のことを自分と同じ人と見るか、それとも物と見るかを選びとっている。
物と見れば敵対的になり、人と見れば平和的になるだろう。

ここの文章だけで、自分は精神的に人生観がすごく変わった。
イライラするとき、自分に問いかけてみる。相手は同じ人間か、それとも物として見ていないか?それをするだけで心がものすごく平穏になる。
たった一行の他人を人と見るか、物と見るかだけでこんなにも心の感じ方が変わるとは思っても見なかった。
振る舞い(行動)が重要と説く本はたくさんあれど、行動ではなく、心のあり方が大事だと説いている本はあまり接したことがない。行動を変えるのは並大抵の努力ではできない。でも見方を変えるのは一瞬の心掛けだけでできる。その単純さが自分の性に合った本だった。

それと相手が間違っているかもしれない場合、それでもなお自分がもしかしたら間違っているのではないだろうかと内省することを求めている。どちらも自分たちの正義を掲げて生きているので、それに真っ向から対抗しても対立しかうまない。だからといって折れろと勧めているわけではないというのがこの本の面白いところでもあった。

前作の自己正当化というところにもここで話がつながってくる。
自分自身の心の正直な感情に従わなかった時起こることは、自己正当化。不安定な自我に耐えられず、自分自身を裏切ったことへ直視しないために自分は間違っていなかったと自分を正当化して考える。自分自身に背くことは闘争へ向かうということ。なぜなら、自分が自分に背いた時、他人の過ちが自分の中で急速に膨れ上がる。それを実際よりも悪いものにし始める。それが自己正当化が敵対を生み、心の平穏を失わせ、他人を物としてみるようになってしまう。

人からさげずまれるのは苦痛だが、人に対するさげずみの心のほうがはるかに自分自身を消耗させる。
自己正当化には4つの形がある。
優越の箱 他人を自分より劣ったものとして偏見を持ってみること
当然の箱 自分は被害者であり、権利があり恵まれないでいると考えること
体裁の箱 助けになることや正しいことでも好ましく思われる事を気にするため相手が好まないときそれをしないでおく事 寛大さのなかには、自己正当化によって生み出されているものもある。
劣等感の箱 障害、劣等部分が自分が周囲とうまくやれない言い訳に利用している。自分のこころに嘘をつくとき、ひねくれた時に自己正当化するために劣等部分を使う事

ただ、人間とは一生自分を裏切り、正当化しつづける生物でもある。一生箱という自己正当化をしようとし続ける。でも、そういう事を知っていれば、自分自身で気をつけて自己正当化を取り消すこともできる。自分自身の心が平和に成らなければ、他人に平和をもたらすことはできない。

人を無理やり変えることはできないが、変わろうという気にさせることはできる。

箱の外側にでるためには、 
普段自分が箱の外側にでて接しられる相手は誰かを考える
なにもかもが順調だったことを思い出させてくれる場所や行動を考えてみる
他人について自問することで、自己正当化と非難から解放される
重要なのは何をすべきかという気持ちだけではなく、それをしたいという願望
そうした願望は心のなかから生まれてくる。それに従って行動をすることによって
こころの平和を保つことができる。
外面的な闘争は避けられないにしても、心は平和な状態で闘うことができる。



2013年5月16日木曜日

うつになることは生まれ直しを迫られていること


クスリに頼らなくても「うつ」は治る

いろんな欝に関する本を読みあさっているけれど、どの本でもいうのは、
考えかた、この病気というのは生き方を変えることを
自分自身から迫られているということだ。


今現在ほとんどのうつに対して薬物療法が試みられている
しかし何度社会復帰を試みても再発のため療養が長期化して
諦めの心境になっている人たちがいる。
薬物療法はあくまで対症療法であり、病根にはアプローチしないからだ。

そもそもうつがその人に生じたのはなぜだったかを探索し
自然治癒力を妨げているものがなんだったかを明らかにして行くのが、
精神療法と呼ばれる

そもそもうつとはどこか外から降りかかってきたものではなく、内面で生じた現象。
セロトニンのアンバランスという説明で済ますのではなく、
なぜ発症以前にはなかったアンバランスさが
その人に生じたのかを考えなくてはならない。


この泉谷閑示の考えかたでは、身体、心、頭、と分けて見る。

動物は心と頭で生きている
文字通りの一心同体で心と身体がつながっている

だから決して心と身体は対立をしたりしない。

ただ、人間は頭を発達させてきた。過去の分析や未来予想をすることで、
文明を作ってきた。
が、弱点があり、いまここ現在を把握することが不得手である

頭を表す言葉はmust shouldすべきだ、してはならない、に違いない
 主に論理的思考を司る

心とは、感情、欲求、感覚、直感を生み出し、いまここ、現在を見ることができる。
Like want to 、〜したい、したくない、好き、嫌い、
頭のように論理性がなく、結論から出てくる。


頭が強くなりすぎると、心をコントロールしようとして
頭対心と身体をいう図式を生み出してくる。
うつとは、こころと頭の対立によって生じてきている。

頭がコントロールして心を支配しようとしたとき
発生するストライキしてうつになる。


回復には、頭主体から心と身体の復権が必要になる。

あまりに頭の精神力が強い人が鬱になりやすい。
精神力が弱ければうつには逆になりにくいとも言える。

頭のコントロールに対応しようとしても聞き入れない場合、
心は身体にSOSサインをだす。
それが心身症と呼ばれるものである。

身体の不調をただ困ったことと受け取るのではなく、これは何を言っているのか?
という問いをもつこと、それを手がかりに自分の心に耳を傾けて見ること、
少しずつ頭と心の間の蓋が開き、調和の取れた状態になって行く。

自己イメージがあるべき自己イメージ一色になってしまい、
実際のある自分が見えなくなってしまっている。

〜すべき〜してはならないという頭の命令に常に従ってきた人にとっては、
じぶんの心の〜したい、〜したくないという声が聞き取れない。
まずはそれを聞き取れるようになると、遊ぶことができる。
遊べることは改善の一里塚とも言える。

鬱になりやすい病前性格

作業遂行上の秩序を重んじる、道徳、人間関係、責任など
社会的な秩序を重んじる傾向がある。

また道徳心の強さから、心から湧き上がってくる怒りや恨みも良心的であるべきだと
いう頭から却下されて、行き場のなくなった感情が鬱状態を招く

新しいタイプの遊びにいけても会社にはいけない性格の場合

対人関係への過敏さ、過度に他人にどう思われるかを気にする神経症、
不当に自己評価が低く自分を無条件には愛せない自己愛の問題を抱えている。
傷つきやすい繊細さ、他者からの評価を拠り所にする傾向が強く、
ときにそれが感性豊かな仕事を産んだり、人並外れた頑張りをすることもあるが、
しかしちょっとした失敗で挫折感を味わい、
人間関係による動揺が大きい敏感な性格傾向とも言える。

性格はその人の突出した資質であり、良い形で出れば長所、悪い形だと短所になる。
精神療法では、資質は変えられないが、良い方向にでるように
治療アプローチのガイドやサポートをしていく。

うつの経過中はイライラしやすい状態になる。怒りは心に由来するものであり、
頭と心の蓋が外れるとき、どうしても最初に出てくるものになる。
ネガティブな感情から先にでてくる。怒りというのも自然にでてくるもので
それを押さえつけることは問題があるのではないか。
怒りをだからといって周囲に撒き散らすことは社会性の問題が発生する。
自分でやる方法としては、日記を書くこと、
そこに心の吐き出しノートをつけること。
書くことは論理的作業なので、心で感じている怒りを言葉に落とし込むのは結構難儀なこと。
しかし根気良くやって行くことで、頭と心の協働作業が生まれる。

不眠について
眠るを死ぬことと捉えれば、今日一日をよく生きていなければ良く死ねない。
死ぬに死ねない状態になる。つまりは不眠になる。

なぜうつになると死にたいと思うのか?

死にたいという患者の心は積極的に死を望んでいるよりも、
終わりなく続く苦しみからとにかく解放されたいと思っている。
死にたいと思っているくらい辛いということに対しての
SOSサインでもある。患者自体も死にたいと言うこと自体に罪悪感を持っている。
それでもひょっとするとこれを話すことによってなんらかの救いが
得られるかもしれないと期待してしまう。

自己否定型うつ病の場合、発症以前から心に自己否定を宿しているので、
死にたいという気持ちは強弱はありつつも長期間もっている。
その場合は薬物療法よりも生育史を丁寧にたどって自己否定を明らかにしつつも
そうなる以前にあったはずの自然な自己愛を蘇生させる作業が必要になる。
もともと強い感受性と内省力をもっているので、しかるべきサポートを得られたら
病的な方向に発揮されてしまっている生来の資質を
美点として開花させることもできる。

努力に価値をおく視点

成功したひとは努力をしていると考える。しかしそれは努力ではなく、
本人はただただ熱中していたのを努力と見誤ってしまっているのではないだろうか、
人間は生まれ持った資質に叶うことであればそれを面白いと感じ、
資質に乏しいことには苦痛を感じる。努力信仰は、資質の乏しい方向に
無理に進むことを奨励してしまいかねない。
人間本来が備えている快不快のセンサーはその人の生き方についても
その人の資質にあった方向に導いてくれる。

うつは心の風邪?

うつというのは、心の風邪というが、長期間かかるため、
むしろ疲労骨折に近いとも言える。
鬱は完治というのはなく、病気の勢いが弱まった寛解という言葉を使う。
再発の可能性はいつでも残っている。

病というのは、何らかのメッセージを自分自身に
伝えるべく内側から湧き上がってくる。
病はその中核的な症状によって、自分自身をより望ましい状態に導こうとしていると
という考え方を取り入れてみる。

うつは元に戻るという考えると再発の可能性もある。
生き方や考え方が代わる生まれ直しという深い次元での治癒が必要になってくる。

うつの本当の病根は何なのか、そこを見極める作業は本人に任されてしまっていた。
それを精神療法を用いてきちんと治癒を目指す。

薬に頼っていると後ろめたさが出てくる。そのときは薬に頼っているのでなく、
クスリを活用していると捉え直す。
きちんとクスリを使用する事で状況が改善され、
あるところから必要がなくなってくる。
医師と違った中途半端な使用方法をしていると帰って長引かせてしまう。

うつでは大抵の場合、物事に対して拒否反応を示す部分というのは
だいぶ広がってしまっている。
そのマイナスイメージを絞り込んでいく作業が必要になる。
そうすると鬱を生み出した核となっているオリジナルのテーマが抽出されてくる。
そのテーマによってどういう社会復帰をするかを決めて行く。

適応障害について

適応障害の解決のためには、まず環境からストレス因子の除去が優先される。
だが、世間のイメージはどうしても本人がその環境に適応できるようになることが
治癒だと勘違いしてしまっている。

現実との関係を尺度にして人を判定する事は適応イコール正常と考える事になる。
その現実自体が、満員電車にゆられ、長時間労働をして、
理不尽な命令に耐えることだったとしたら?それは適応しているが、
人間性としてみて適応していると言えるのだろうか?


心理学で葛藤や抑圧とあるが、
頭由来の論理と心由来の感情が対立している、これが葛藤

抑圧は頭が心との間の蓋を閉めてしまい、頭の中は何の問題ないが、
心の奥底に問題を抱えたままにしている。

葛藤は人間的な意味では健康とも言える。
抑圧が進みすぎると、心の声の蓋を閉じてしまうがある程度限度を越えると
それは心と体がストライキを起こしてうつという身体状況を生み出してしまう。

鬱状態に陥ると、あまり意識しなくて済んだ
生きる意味を問わざる得なくなってくる。

人間の基本的価値観はどんな価値観が支配的な時代に人格形成期を迎えたか
によって少なからず方向付けられてしまう。
一度できた基本的価値観は時代が移り変わっても深いところではなかなか
簡単に変化しにくいものである。


しっかりうつをやるという発想

うつになると昼夜逆転になる。
治療を始めた当初は規則正しい生活をと言っていたが、
起こってくる症状に何らかの意味があるのではないかと思うようになってきた。
病気や症状にはなにか大切な働きをしてくれるのではないかと
しばし立ち止まって視点を変えてみる事が欠かせない。

何をやっても長続きしない。とくに自己愛がうまくいっていない人に多い。
かりそめのいい子でありたいという思いである時期は長続きしていた。
そのかりそめのモチベーションが自分を支配してしまい、
真のモチベーションがつかめなくなってしまう。

ニーチェのツァラトゥストラのラクダと獅子と小児のように、
ラクダとしての義務が果たせなくなった
疲弊した状態になり、義務の遂行が次第にうまくいかなくなり、
物事が長続きしない時期になる。
やがて、意欲減退、集中困難、鬱状態になる。この行き詰まりの極地において
ラクダは獅子に変化する。ただ獅子は強奪する猛獣なので、
怒り、苛立ち、攻撃性を帯びている。それまで自分を支配していた
龍を連想させるような対象に対しては敏感に怒りの矛先を向ける。
この状態を通り過ぎると小児、物事をあるがままに捉える事ができる
成熟した人間になる事ができる。危険だった獅子の獰猛さも
己の主体性が取り戻された事で自然に消えて行く。

復職の時期については、医師側の見たてと患者の思いが食い違いやすい。
治療の中でも難しいポイント。
復職したいというのは本当に心の声なのかを考える。
それが復職すべきという頭が心を偽装した声かもしれない。
その場合は、復職したいといっても身体がついてきてくれない。
心から復職したいと言える状態になるというのはどんなものか?

頭からではなく、心と体の真の休息がとれるようになると休む日々、
好きに遊ぶ時期が物足りなくなる、退屈になる。
社会と関わってその中で自分を生かしたいという欲求が強くなってくる。
真の心から発してくる決定は精気に満ちた状態とも言える。
逆をいえば、復帰と休職を繰り返したり、長い期間状態が改善出来ないケースの
ほとんどの場合真の休息に至る前に復帰をしたか、
社会化した頭が心に対して真の休息を許していない状態に
あるのではないだろうかとかんがえられる。

しっかりうつをやってみるという逆転の発想

病と闘うと考えてきたひとはこころと頭が対立したまま療養したつもりで、
むしろ皮肉にもうつを促進的な内部環境を作ってきていた。
まず、病に従ってみる、鬱に従うとは何もしたくない、
抑うつ気分や意欲減退に身を任せてみる
現代人の鬱は大まかにいえば頭によるオーバーコントロールにたいする
心と体の反逆というもの
次に動ける状態になってから、なにをしたいのかわからなくなってきた、
何もしたくないという気持ちになってくる。
そこで、頭は心と体に何が本当はしたいの?と問いかけるが何も答えてくれない。
何故なら長い間声をあげてこなかった心と体はいわば退化しており、
再び動き出すには幼児の目覚めに相当するプロセスを経る必要がある。
なんにでもイヤイヤという幼児性を経て、
徐々に一貫性をもった〜したくないが生まれてきて、
やがて〜したいという高度な自己主張が表明されてくる。

〜したくないの対象が絞り込まれてくると、その人の譲れないものが
ネガのように反転した形で見えてくる。
決して妥協できない中心的なこだわりが幹のようにあり、
多少の妥協は厭わない周辺的なこだわりが見えてくる。

絞り込まれたしたくないことは、その人の中心的なこだわりに反するもの。
したくないの声を手がかりに小さな声のしたいに耳を傾ける。

夏目漱石がいう他人本位こそが、
何もしたくないという空虚さ、不安感を生んでいて、
外から無批判で受け入れた知識や価値観を用いて生きるのではなく、
丁寧に咀嚼した我が血肉とよべるものを養成し、それに基づいて生きることにした
自己本位に目覚めることになった。
自己本位として漱石が言いたかった主体性の回復の大切さは時代が変わっても
大事なものである。

いまの私たちは未来に備えることばかりをしていて、
いまを生きることをしてきていない。
心と体はいまを重視するので、あまりに将来に偏った時、
内なる自然は警鐘を鳴らし始める。
内なる自然を信じて、生きていく。
身体にいい食べ物というのは頭で考えることもなく、
身体が食べたいという欲求で教えてくれる。
その日その時の体調によって必要なものを間違いなく教えてくれる。
大切なことは、その時の自分の身体がなにを欲しているのかというのを
歪みなく聞き取れるように心がけること。
身体の声が聞けるということは頭と心の蓋が開いている状態に相当する。

うつのみならず不健康な状態とは頭が独裁的に肥大化して、
心と体を無視した時に引き起こされる。

人間には何もしないという空白の時間があってこそ、内省や創造といった
内的作業が可能になり、ぼんやりと思いを張り巡らせて見たり、
自分自身と対話を行ったりする。人間はなにもしないということに耐えられるほどの
忍耐力は持ち合わせていない。療養が長引くのは自己コントロールという
頭の要素が解除できず、充電しながら放電している状況に陥っていると言える。

うつがなおるとは

病気以前の状態にもどるのではなく、
生まれ直しという深い次元での変化が真の治癒と言える。

自力とは自分の力を頼りにしていることで、
他力とは仏の力によって導かれている開かれた状態のこと
自力とは頭の意志や知力を頼りにし、
他力とは心と体に委ねると言った状態

鈴木大拙が自力を尽くしたところで他力が働いてくると述べた

鬱時点では患者はまだ自力を捨てず自己コントロールの主導権を握ったまま、
意地を張り続ける。この時期が治療の最も根気のいる時期になる。
いかに自力の根を切り取れるかが今後の経過を左右する。
動けない、なにもしたいと思えない、起きられない、この時点は頭が動くべきだ、
なにかしたいと思うべきだ、起きるべきであるとおもっている。
それが、動かない、何もしたくない、起きたくないと変化してきたら、
療養が良質なものになってきている。何故なら心から発せられている言葉だからだ。

それがこんな風に何もしないで過ごすのは快適だ、ずっと休んでいたいなあと
思えるようになってきて休みを満喫できるようになったら、
自力を捨て他力に身を委ねているといえる。

このプロセスを経るということは大自然の摂理で動いている心と体に対して
頭が畏敬の念を抱くようになり、大いなる流れに身を委ねる
生き方に目覚めることになる。
適応イコール正常と信じていた思い込みが脱落し、
適応イコール麻痺であることが見えてくる。
自力から他力に抜け出すことによって生来刷り込まれていた
思い込みの数々が再検討され、
物事の真の姿を新たに捉え直す動きがでてくる。

うつは、現代における重要な覚醒の契機のひとつであるとみることができる。

2013年5月15日水曜日

人生で行き詰まった時は逆が正しい



自分の受け入れ方読了

気になった文の書き起こし

人は生き始めるスタートラインが違っている。同じトラックを走っているように見えて、実は何周も違って走っている。到達する地点は違っている。だから、到達した地点ではなく、自分が走った距離でじぶんの人生を評価することをこの本は勧めている

自分を受け入れる
人に受け入れられるよりも、自分で自分を受け入れられた方がはるかに大切で気分が良い。
逆に自分で自分を拒絶するとそれが悩みの種になる。

自分を卑下しないで、人を認める。
自分を受け入れるためには自分を知る。
自分を受け入れられない人は親しい仲間がいない。じぶんの運命を受け入れられない人は仲間が悪い。心の底では孤独であり、憎しみがある。

自己を認めない人には、幼い頃からありのままの自分に価値が無いと錯覚をした。そしてその段階で心の成長を止めてしまった。長年に渡りつもりに積もった不平不満、心の不満の根雪を解決しようと一気に飛び越した考え方をしてしまう。
悩んでいる人の共通点は自分を受け入れていないことである。
ありのままの自分に価値を見いだせれば運命は光になる。
自分を受け入れられないで悩んでいる人が本気で解決しないとならないのは、仕事の失敗ではない、自分への間違った評価である。

人に認めてもらいたいと自分を偽るから疲れる。
幼児的願望とは、わがまま、頑固、おんきせがましさ、ナルシズム、依存性、いつでも褒められたい、注目されたい、求められたい、とにかく自己中心的なので願望のことである。

大人になって幼児的願望が抑圧されていると、表面は大人の振る舞いをしなくてはならないから憂鬱になる、イライラする。幼児的願望が満たされていないまま大人になると、我慢我慢の連続になる。いつも心に不満を抱えている。人間関係もうまくいかない。
幼児的願望が満たされなかったのは、その人の運命だったかもしれない。それにも関わらず、どうにかそれを克服しなくてはならない。人生は不公平に出来ている。美人もいたり不美人もいる。それに加えて幼児的願望を満たされて過ごした人もいれば、過ごせなかった人もいる。
それを運命だとして受け入れなくてはならない。

愛されなかったものは人を信じることができない。愛されて始めて愛する能力も出来てくる。
憎しみの処理は、愛されなかったものの人生最大の課題である。
幼児的願望の処理は人生最大の課題である。

生きづらさを和らげる方法

俺の人生は辛いと認めること、これが運命だと決心する。
だいたい人生はうまくいかないように出来ているものだ。

自分の背負った運命と闘うことが生きることである。

じぶんの精神の幼児性を認め、それを受け入れてくれる友人を選ぶ
自分に正直になり、心の底にある不満に直面すること、恨みがある。

アイデンティティはどう確立させるのか。
理想の自分と現実の自分を間違えないこと
なりたい自分といま現実の自分を勘違いしてはいけない。
ドン底に落ちた時、本当の愛が見える

愛されないで育った人が人生は不公平だと受け入れられた時、始めて救われる。人と比較しない自分自身の目的ができる。そしてその目的に向かって生き始めることで毎日が楽しくなる。

何より自分の過去を受け入れる、それが決断であり、人生最大の業績である。
人生の業績は人によって違う。人それぞれ違った運命を持って生まれてきている。だから、業績も人によってそれぞれ違う。

自分の脳は幼い頃からの長期に渡るストレスで生きにくくなっている。自分はこの脳で生きて行こうと決心することが、正常な脳で生きることを断念することであり、正常な脳で生きることを相対化することである。
決断と諦念、断念を通して始めて自分の人生を生き始めることができる。

生きることに疲れたあなたは、人生はそういうものだと覚悟する時にきている。不幸を受け入れようとする気になるとなにをすればよいか見えてくる。
私の人生は辛いと認めること。

人生はなるようにしかならない
ジタバタしても仕方ない
人生、寿命があるのでいつかは死ぬ
そう覚悟できたら心に余裕ができる

運命に逆らえば逆らうほど運命は過酷になる。人間が運命に勝てるわけがない。自分の運命にあった生き方を探すことである。

自分を受け入れない人は人生の目的を間違える。運命は逆らえない。運命はじぶんの方から進んで受け入れるしか生きる方法はない。覚悟を決めるとは口でいうは容易いが、実際はものすごいことである。自分の人生が悲しくて悲しくて胸が張り裂けそうになる。何度自分はこの人生の辛さに耐えたのか、そう思うと悲しさで崩れ落ちそうな気持ちになる。
これほど人は不公平に生まれている。これほど人は不公平に育てられている

初めは涙と共に運命を受け入れることである。そして、一人しみじみなくことである。涙が枯れるまでなくことである。


ゴリラがウサギとして認められようと長年に渡って努力すれば最後は無気力になるだろう。自分を否定する努力を長年に渡って続ければ生きるのに疲れるのは当たり前である。

事業に失敗したからこそのあなたなのである。あの大学に落ちたからこそののあなたなのである。それに悔やんでいるとすれば、あなたはあなたの指紋を悔やんでいるようなものである。
指紋が人それぞれ違うように人生は人と違っているのだ。

自分の人生の履歴はまさに自分なのである。成功の裏にも失敗の裏にも自分がいる。
あなたの失敗はあなた固有の失敗であり、成功はあなた固有の成功なのである。

何より大切なのは自分が自分として生きることである。

不幸な人は自分はこうあるべきだというところから出発する。だから生きづらくなる。

あなたの人生でかっこ悪いと思っていることがあるだろう。誰にでもかっこ悪いと思っていることはある。だが、じつはそのかっこ悪いということころがあるから、あなたはあなた自身なのだ。
なんという自己を肯定する力を要求するのか。
いまなりたい理想の自分は本当にあなたにとって望ましい自分なのか?むしろいまの現実の自分の方が望ましいことはないだろうか。理想の自分という解釈をもう一度考え直す事を勧める

あなたがいままでそのように生きてきたということが、そのままあなたの固有の人生なのである。あなたの過去を肯定するとはそういう事である。
だから、あなたは自分がいままでしてきた事の中に自分を発見できる。

自分が自分として生きているか、自分ではない自分を演じて生きているのかそれが問題である。
なぜ自分ではない自分を演じてしまうのか?
間違った価値の序列が自分の心の中にある。
実際の自分を卑下しているから自分と違った自分を演じてしまうのである。

人は段階を追って成長して行く。したがって幼児期から愛されなかった人は単に社会に擬似適応する事はできても心理的には成長しておらず、情緒的には成熟できない。
幼児期に愛されなかったひとにとってはたとえ大人になって大人の役割を周囲から期待されるのは辛い。
周囲から期待されたことはあなたの運命なのである。それを辛くてもそれを引き受けるということが運命を引き受けるということである。

人が自立し始めたときは本人は意識していなくても心の中ではものすごい闘いをしている。表面的にはなんの困難もないようにみえるがただ生きているだけでものすごいストレスがあって当たり前なのだ。
依存性から自立性へと移行するときは心のなかは戦場である。
自立性を獲得し始めた初期の段階では単に生きているだけでも必死の闘いである

いままでは人の期待に応えるためのストレスであった。人の期待に沿うようにすることに必死だった。無理をしていた。それは大変なストレスである。いままでは人の好意を得てその好意で自分を守ろうとしていた。そのためのストレスである。しかし自立性を獲得し始めたときには、自分の意見を述べるストレスである。自立性を獲得するとは人の好意を得るために闘うのではなく、自分の意見を通すために闘うのである。したがって結果がどうであれひとを恨まない。
自立性の心理状態になるとする事はすべて自分のためである。だから何事も自分がしたいからしたのだとなる。
自立性を獲得すると恩着せがましくなくなる。人を以前と比べて恨まなくなる。結果として人間関係はうまく行くようになる。

人はそう簡単に自立できるものではない。あなたのなかの依存への欲求はものすごい。
あなたはうつになるように、ノイローゼになるように生きてきたのである。それがあなたの運命なのである。だからまずうつだろうがノイローゼだろうが受け入れる

幸せとは問題のないことではない。問題を扱う心の能力によって同じことを幸せと思うひともいるし、不幸せと思うひともいる。
ものの捉え方で幸せか不幸せになるかが決まるのだ。

人間は自分で自分を苦しめている。
恨みを持って死ぬか優しい気持ちで死ぬかはあなたが選択することである。

おそらく悩んで不幸になっているひとは避けてはいけない問題の解決を避けてしまった人たちではないかと私は思う。
うまくいっている人生とは問題のない人生ではなく、次々に問題を解決していっている人生である。
生きがいとは問題解決の積み重ねのなかで味わうものである。一つの問題を解決することで人生に意味がでてくる。

擬似成長しているときには消耗が激しいから些細なことで落ち込む。擬似成長しているひとには生命力がない。
しかし本当は落ち込むのではなく誇りを持っていい。誰も好き好んで擬似成長したのではない。誰でも本当に情緒的に成熟したかった。しかしそれができる環境ではなかった。成長していないのに外だけは成熟したふりをしなければ生きてこれなかった。内面は幼児なのに成熟した大人の役割を演じるのは地獄である。このギャップのなかで生きるのはものすごいエネルギーがいる。幼児の頃から集団への献身を求められた人が大人になってどうしてエネルギッシュでいられようか。
死なないで生きていること自体が奇跡なのである。
生きることに疲れた人は、自分はすごいのだと気がついて欲しい。

そして、あなたの心の底に積み重なったゴミを焼き払いなさい。もう助けてくれと人に叫ばないで自分でゴミを焼き払いなさい。
人生はやり直しが効くのにどうしようもないと思っている人たちが多い。
この本は生きるのに疲れた人が自分を受け入れてエネルギッシュになるための本である。