2013年4月19日金曜日

人間は時間の中の存在であることを知る




下流志向読了


学びからの逃走、労働からの逃走について書かれた本だが、
どうしても学びのほうは理解できるのだが、労働からの撤退は若干わかりづらかった。
いまはわからないくても、将来的にわかるようになるというのが学びの本質でもあるのだから。


社会的に頑張り勝ち得た義務教育の権利をどうしてこう安易に捨て去るのか

なぜ、子供達は勉強しなくなった?
子供達の学力というのは、絶対評価ではなく、周りとの相対評価で決まる

自分が知らないということに対して、特に不快に思っていないのではないだろうか。
無知のままでいることに生きる不安を感じずにいられる
理由は、就学以前に、メディア、商売を通して、消費主体としての自己を確立してしまったからではないだろうか?
だから、この勉強をしたらどんな意味があるのかという功利主義的な発想を持つようになっている。

消費主体にとって、その用途や効能が理解できない商品は存在しないものだ、

教育はその逆というつくりになっている
教育から受益する人間はある程度教育が進行するまでどんな利益を得ているのか理解できない。

消費は最初にメリットが表示されるが、教育は終わった時にメリットがわかるというつくりになっている

だが、学びは市場原理によって基礎付けることができない
学びは時間的なら現象によって決まってくる。今日の自分と明日の自分は、ぜんぜん違うものになる。それこそが教育の本質であり、どう変わるかもわからないなか、最初からメリットを提示する消費者的な事はできない。

例えば、母国語は、母国語の学習を始めた時、これから何を学習するのかわからなかった、
そして、それがどんな、有用性をもっているのか、価値があるのかもわからなかった。
そのような経験を経て、ある時、その効果や意味があとからわかってくるようになる。
だからこそ、子供達が考えに染まっている市場原理と教育は相入れない存在になっている。

学び始めた時と学び終わった人が同じ人でありながら別の人間であるというのが学びの本質になる。

この勉強、なんの役に立つの?
この言葉には、自分の価値観が正しい事が自明の理に含まれていて、正しいとおもったらやる、正しくないと思ったらやらない、
それではあなたのその正しいか正しくないかは誰がどう決めたのか?自分の価値観のみで決めている。その担保者は、未来の自分です。正しかったら成功、間違ってたら苦しむ。自己責任、自己決定によって学ぶかどうかが決められてしまう。
しかし、大人からみて、未来を幼い自己決定で捨てさせるのは正しくない。むしろ強制させる必要ほうが大事なのではないだろうか。


リスク社会の弱者たち

自己決定、自己責任論
立ち上がった20世紀末期には、努力が実る社会のパイが減ってきた。そこで社会はうまくいかなかったものに対して、自分の努力が足りなかったという理由を与えるようになった。
結果として、二極化、うまくいくものと、失敗したものの二つになった。

努力と成果の相関関係が信じられない中でも、依然として努力をしつづける人のみが成果をを受けられる。わずかな努力の差で天と地ほどの結果の差が生まれてしまう社会になった。

リスク社会で有利な地位に占めるには僕値の努力が必ずしも報われないリスク社会であると逆らって以前とかわらず努力する人
そして、リスク社会とはここがリスク社会であると認識したものがリスクをひきうけ、リスク社会ではないとそうでないと振舞った方が巧みにリスクをヘッジ出来る。

いまの日本社会の考えは努力したものは階層上層し、努力しなかったら階層下落するという能力主義でできている。
しかし、社会の出身階層によって努力する動機付けが違いすぎる。努力する差というのが社会階層によって必ず現れる。

リスクにはリスクをとる。大勝ちするか、破滅か
リスクをヘッジする。負けない方法をとる

このどちらかがある。
下のリスクヘッジについて言い換えると三方一両損という日本語になる。

どちらかが正しいかではなく、丸く収める、この解決方法からは誰からも利益を得られないという方法。
間違ったら死ぬという条件を与えられた時、人は正解を求めるのではなく、間違わないためにはどうするかを選ぶ
日本ではリスクはとれというがリスクヘッジせよとは言わない。なぜならリスクヘッジには二人以上の社会が必要になるからだ。aがだめならbのような。

リスクヘッジとは集団で生き残る

リスク社会をどう生き残るかは決定の成否に関わらずその結果の責任をシェアできる
表題であるリスクのない弱者とは相互補助組織に属することができないひとのこと。
獲得した利益をシェアする仲間もなく、貧窮したときに支援してくれる人間がいない人間 それがリスク社会における弱者のあり方


そして、いま自己責任・自己決定のみでいきていくことができるリスク社会に単身で生きている。
それくらいあんぜんで安心な社会に住んでいる。


相互扶助、相互支援とは迷惑のかけあいを出来る関係というもの


自己決定というのは、相手の人生には関与しないと宣言するもの。
この世界のリスクを自分一人で生き抜くと宣言する。
それが出来るのは強者のみ。そして、強者こそが、相互支援、相互支援のネットワークに守られているという矛盾に満ちている。

論理的には、リスク社会には自己決定・自己責任を貫けるような強者は存在しないことになる。

いるのは、自己決定、自己責任の原理に忠実な弱者だけしか存在しない事になる。



社会的に義務である労働からなぜ逃走するのか?


自分のことは自分で決める。それが自分にとって不利益になったとしてもという自己決定権に対する固執。
ある種の自己決定フェティズムがある。
自己決定することがよいことであるというのは、日本全体の思想になっていない状況で
それに固執することは、マイナスの結果を生む。どちらかというと集団的、みんなで動くほうが強い。

初等教育というのは、19世紀に世界でチープレイバーとしてこき使われたのを、
社会的上昇の機会をあげるために、義務教育をすることになった。
しかし、今の日本は、進んで勉強を 「権利」 とは思わず「義務」と経済合理性の倒錯が教育業界にはいってきてしまった。

その価値観がニートやすぐに会社を辞めてしまう人の気持を作っていったと思う。
自己決定でやっているのだから、雪かきのような自分がやりたくなくても必要な仕事をやらなくてはならない。やりたくないと判断すれば
やらないと決定する。そうすると、自由ではあるが、社会を維持する必要な仕事に対する敬意がまったく感じなくなってしまう。
雪かき仕事は当人にどんな利益を生みだすのではなく、まわりにどんな不利益を抑止するかを基準になされるもの。

自己決定論に毒されたひとは、その重要性が理解できない。

転職を繰り返す思考パターン

まず、こんな仕事やっていられるかと、上昇志向がつよい人間は、不満を持っているだろう。そんな人が回りのひとから信頼されることもなく、
回りのひとの期待に答えてよい仕事をしようというモチベーションもなく、高い評価をえることができなくなるだろう。
そして、いまの職場で良い評価を得ていない人が、よいオファーを貰えるとも限らず、、、、

自分も転職を繰り返しているが、この傾向がある。仕事がつまらないから(おもしろかったが)職場での人間関係に投資しない(しなかった)
しごとの質を上げる努力も怠る、つまらない仕事しか与えられなくなり、耐えきらずに転職する という悪循環に陥っていた。

本人はよりクリエイティブでやりがいのある仕事を求めて転職したと総括するかもしれないと自分のなかで辻褄があわない。

自分の失敗を迂闊に他人におしつけて自己正当化しないほうがいい。少なくとも転職したくなる仕事を選んだのは自分なのだから。
失敗の責任を他人におしつけて、自分に何の過誤もなく自分のやったことは正しかったということにすると
その正しい振る舞いを繰り返す。人間はそうやって失敗に取り憑かれる。


仕事に対する焦りもある、すぐに賃金に反映してほしいという思いがあり、会社側は高評価にはちょっとむずかしい仕事を与えるという方法を取る

学びと同じで、仕事も時間的な現象だから、
労働主体的人間には他者から承認を得るまでみずからの主体性を確証することができない。
一方、いまの若者の中心的な消費主体的人間は他者からの承認に先立って貨幣を手にした時点ですでに主体性を手にしているがある。

労働・学習は時間がかかり、相手から認められてからこそなのだが、消費は、貨幣をもっていればだれでも認められるということだろう。

労働は本質的にオーバーアチーブ 人間はつねに自分が必要としているより多く作り出し、その余分分は個人から共同体への贈り物になる。
人間を人間たら占めているのは「他者と交換する」ことへの灼けつくような欲望がすべての社会制度の根本にある。

このように贈り物をしあって、贈り物をするための余分なものをオーバーアチーブすることで人間社会は作り上げられていたのだが、
ニートは自らを等価で交換することでなければ応じないクレバーな消費主体として自己規定している。
なのでオーバーアチーブを必要とする労働ではニートは仕事をすることができない。




交換

交換が安定的にスムーズに振興するためには交換の場を下支えする様々な制度や人間的資質を開発する必要がある
むしろ交換そのものよりも交換の場に厚みを加えることそれ自体に目的がある。
交換における真の掛け金は等価のものを交換することではないし、安価で高価なものを買い叩くことではないし
交換をきっかけにして交換を可能にする諸々の人間的価値を算出することにある。



学び方

メンターを選ぶとき、自分自身の価値判断を「カッコにいれてる」時間の経過自体が学びの本質

自分にとってその意味がわからないままに受け入れ、なんだかよくわからないままに受け止め、いずれ其の言葉の意味が
理解できるような成熟の段階に自分が到達できることを待望する。
ですから、学ぶというのは知識や技術にあるのではなく、学び方の内にある。

やはりここでもテーマは「時間」自分自身の変化を勘定にいれること
逆に無知とは自分自身もまた変化するということを勘定にいることができないひとのこと

無時間ビジネスモデルの極限のかたちのプレーヤーは「おまえは誰出会ってもよい」とつげ
最後に「お目は存在する必要がない」とつげることになるでしょう。


読んでいてだいぶハードだった。長くもなり、書評としての価値もなくなった。

基本的には、学びは、時間がたてば人間は変わるのだ!ということと、どう変わるかは
先生にもわからず、そのタイミングもわからない。
でも、それでも先生と読んだ人を信じることで、自分自身を新しく作り上げていくことができる。

それには時間がかかる。

反対に消費者モデルは、貨幣さえあればすべてを買える。すべて貨幣との等価交換で実施できると考える。
ビジネスはそれではいいのだが、より人間的な働く、学ぶ、といった部分にビジネス消費者モデルの考えかたが
齟齬を生んでいるのではないかという本だった。



marginal 日本辺境論 日本属国論 お茶目な人


街場のメディア論 内田樹読了!


疲れすぎて眠れぬ夜のために 


はじめて9条に関する本を読んだ



なんと4冊も内田樹の本を読んでいたとは!

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