河合隼雄
日本人とアイデンティティ 読了
青年期に敗戦を迎え、世界に負い目を感じた
その後、西洋崇拝、日本嫌いになったが、
いくら努力しても自分は日本人であることを
認めざるえない。だからといって日本人は
素晴らしいという愛国者になるのではなく、
日本人は日本人なりの特徴を自覚しつつ
それを基にして国際性を持たねばならない。
欧米人が個としての自我をもつに対し
日本人は常に自他との相互関連のなかに存在する
欧米人が男性像ならば日本人は女性像で表す
日本人としてアイデンティティを確立するには、
西洋の文化を取り入れざるえないなか、
どうやってそれを文化のなかに消化しきれるか
にかかってくる。そのためにも、
もっと一神教の考えに取り組む必要性がある。
人間は様々なことを成し遂げることが出来る。
それでも人は死ぬ。そのとき、仮に持っていけると
というものがあるならばそれは「たましい」なのかと
仮定する。=それは普段意識できない無意識の集合体のことを指す
フロイトが幼児期に注目したのに対して
ユングは人生の中年期、老年期に注目した。
ひとは成人以後も一生発達していくと捉え直した。
日本には、西洋の考えかた、そして東洋の考えかた
その両方が持ち込まれており、生きていくためには
どちらか一方に与するのではなく、どうにかして
それらを統合するという創造を行わねばならない。
例えば場の論理として、全体のことをかんがえて自己主張を
抑えてでも場の平衡状態を保つ必要がある
反対に、個の論理では各人の自己主張を明確に言語化することで
平衡状態を作り出すことを目指す。
どちらが正しいというのではなく、二律背反したものをどうにか
統合していくことが、創造するということになる。
自己実現とは、単純な表面的な幸不幸ではなく、意識を越えた
無意識のうちに避けて通れないとおもわれる行動や相手を選んでいる。
それは、人間のもつ無意識の大きな流れであり、意識だけでは
対処することはできない。その大きな流れの中に自己がいるということ
を認識する必要がある。結果として、表面的には不幸になることも
あるが、精神的自己実現的には是となることもある。
が、対峙するとき必ず常世の幸せというものを願う必要がある。
その願いがあるからこそ、自己実現という捉えがたいものに
ひとつの形をあたえることが可能になる。
コンプレックスとは、自我の維持に危険を及ぼすものを意識しないが
明確に存在するものを心の奥底に眠らせ、それによって自我は統一性
を保つことができるが、無意識のなかに危険性は放置されたままになる。
コンプレックスは感情とつながり、意識とは相反する喜怒哀楽を表現して
しまう。ただ、コンプレックスになるということは、自身の人生にとって
大事なもの、危険を感じるほどのものだったため、これと向き合い、
自我との統合をすることでより発展的PROCESSに乗ることができる。
コンプレックスは基本的には、自我では捉え切ることができない。
そのときに自我が低下する夢の世界に飛び込む必要がでてくる。
夢がコンプレックスに対してなにを言っているのかが知りたく
なにがコンプレックスであるかはさほど重要ではない。
コンプレックスが個人の人生にどんな影響を与えているのか
そちらのほうが重要視する必要がある。
ただし、コンプレックスは簡単に捉えられるようなものではなく、
むしろ自己のなかにもう一人の自分を抱えていて、彼と対話するように
するように接する方が建設的になる。
想像力とは、あらゆる創造活動の源泉になっている。
そこにはどれが正解ということはなく、むしろどんな問題を探し出してくる
かそのことのほうに重点をおくべき。
その際、創造のためには、抑制者、または制約が必要となってくる。
それに対するぶつかるエネルギーによって対立によって物が創造される。
人間にとって己を越えた存在というものを知り、それとどう向き合うかは
大きな課題だった。己を越えた存在とのぶつかりは大変危険でそのなかで
死とも密接に繋がることもある。そのために、人間は儀式という方法を
開発した。
その儀式を聖と呼んだ。そして日常を俗とした。
その日常を脅かす存在として、自由である遊びというものができた。
聖も遊びもどちらも日常とは対立しているが、遊びは日常が強くなると
すぐに砕け散ってしまう存在でもある。
聖⇒日常⇒遊びという階層が存在する。
自分がこの世で生きていくためには我々自身を組み込んだ体系をもたねばならない。
自然科学は強力に世界を発展させてきたが、客観性ゆえに自己の入る余地がない。
それをイデオロギーという他人の体系ではなく、自己の中に世界と自分を組み込んだ
物語を作っていかなくてはならない。
その際、物語とはお伽話という形で語られる。それは表面的に見える世界のもうひとつ
別の世界を映し出すものである。
そこに語られる物語は、危険であり死と生の再生の物語が多数占めている。
人は何度も精神的に死に、そして生まれ変わり成長を続けていくからだ。
物語には、なにかを放棄する瞬間だったり、対決する瞬間が書かれている。
それは自分の人生のなかでも行わなくてはならないことを物語として先人たちが
書き示してくれたものだとも言える。
そこには、日常とは別の価値観が入っている。例えば老人とはなにもできない非生産的
な存在として捉えていることがあるかもしれないが、物語の世界では
なにもできないからこそ価値があるというふうに捉え直されている。
いまの人たちは、やるべきこと、やらねばならないことが多すぎて、やりたいことを
ないがしろにしている。やりたいことこそが心身ともに全人格が関わってくるので
それによって心が回復してくる。好きな事は人を活き活きとさせる。
河合隼雄はユングという人物の日本への紹介者ではあったが、
彼自身の心優しい文体で、魂の問題に迫っていき、間違っているのかもしれないが
自分の中ではたくさんの知見を得、また救われることが出来た人だった。
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