2013年6月22日土曜日

あなたの苦手な彼女について 読書メモ

あなたの苦手な彼女について

橋本治の女論
恋愛に限った事ではなく、女全般について
女とは、女という中身の上に女という衣装を着ているという二重構造を持っている
男からみての女だけではなく、女からみての女も含まれる。女というカテゴリーのなかで苦手といいようがない女たちが個々にある。それについてのお話
何時もながらややこしい。

男性にとって、女とは恋愛対象になる女と、恋愛対象にならない女に分けられる
恋愛対象にならない女性に対して、男はどうでもいい、好きにすれば良い。ここが男性の女性差別の根っこになる。

1970年になり、日本は豊かになった。
そしたら、基本的にどうでもいいやという回路が働き、女性の社会進出が始まった。

そして、ウーマンリブ運動などから、派生して
従順ではダメだ!戦わなくてはならないとなり、片方は肩肘張って会社社会で闘い、社会参加してないと言われた専業主婦は、もの言う消費者となり、そこから、敵対的な立場をとって文句を言っていればそれだけで自分は社会に参加しているという歪みの発想が生まれた。
そして、男女含めてクレームをつけることそれが社会に参加している事として容認されているとなってしまう歪みが残ったままになってしまった。

そして、すべては豊かな社会が支えていたのだが、バブルが弾け、社会自体が揺らぎ始めてきた。
一方で専業主婦も家事自体の簡略化や、機械化、和裁、洋裁が、洋服の発展によって衣食住の衣の部分から完全に切り離されてしまった。仕事がなくなった。余分なエネルギーが生まれ、そこで教育ママの誕生へと繋がる。

働くということは、人間の生存のあり方、それを豊かさは無くしてしまって、どうでもいいことばかりやるようになった。
そして権利を主張するようになった。それに付随する義務は、豊かさのなか拡散されてしまって行った。

自分がない男と、自分しかない女

女から自分がないと言われて、男は傷つくのか否か?
傷つくかもしれないし、傷つかないかもしれない。ただ、関係ないとはねつけることが出来る。自分がないことのメリットは、孤独がなく、代わりに全体がある。全体のワンパーツとしても考えられる。
でも、自分がないという事自体ありえない。自分の家や自分の会社人間として価値があるからあるだけで、自分というのは必ず存在する。
孤独とは、どこかに所属しているはずなのにその所属がみえないことをいう。
人は何処かに所属している。言葉が通用する共有されている世界の中に所属している。
女から自分がないと言われない方法はただ一つ、その女の仲間になれば良い。そうすれば我々と思いを同じくしている以上自分があるということになる。
我々はこう思うから自分がある。あなたはこう思わないから自分がない。


結婚が成立しない理由について
豊かさが揺らいできたから
結婚したくてもできないもんだいがあり、
出会いがないプラス生活が安定しないが原因でもある。この人はと思える直感が働く出会いがない。つまりは、出会いではなくその先にある結婚への具体的なイメージの共有がない。

個的なあり方に慣れているということは、自己中心的であろうと自己利益的であろうと、なんであれエゴを第一にしているのだから、他人と折り合いをつけることがうまくできない、、だからこんな自分には彼女はできないのこんな自分とは貧しさではなく個的な生き方に慣れきった自分ということになる。

位置付けを欠いた思考はいくらでも自在になるが、一向に外には出てこず、どんどん自在になるだけで自己完結してしまい、思考が自由ならば自分の位置付けを欠いていることそのものが問題にならなくなる。
そういう存在があなたの苦手な彼女について、になる。

2013年6月21日金曜日

「やさしさ」と「冷たさ」の心理 読書メモ

やさしさと冷たさの心理



自分の肉体的、知的な弱点を相手に対して恥ずかしいと感じない関係が安らかな関係である。

つまりは、自分の弱点を自分で認め、それを自分に対して隠してはいけない。

その弱点をみても相手が引かない関係こそが心理的成長には大切になってくる。

他人に甘える人は、基本的に自己中心的でわがまなである。そしてその感情自体をきちんと認める必要がある。

甘えがあるというのは、他人への欲求が強いことである。この加藤諦三氏の本では、基本的に親の愛に満たされてきた肯定的に生きた人と、親からの欲求を果たすために自分自身を殺して生きてきた二種類いると考える。
そして、自分自身を殺してきた人は、大人になっても甘えの欲求が満たされていないから、他人の注目を求めたり、虚栄心でみたそうとしたりするという話が基本線にある。
そして、甘えの欲求が満たされなかった人は自分の情緒が2,3歳児くらい未熟な部分を残しているということを認めなさいという。その認めることができてから次の行動に移ることができる。

そして、人生において最も大事なのは、自己評価、他人に実際に愛されているかどうかは別として他人から愛されるに値する人間だと本人が感じているかが大事になってくる。
そしてそれは、自分の子供時代に周りにいた大人たちの目をどれだけきにしたか、愛情を受けたかによって決まってくる。ただ、その子供時代の感情をおとなになったいまでも振り回されず、自らに自らを肯定し、常に勇気づける必要がある。
自己評価が低い人は傷つきやすい、他人といるとなんだか落ち着かなし、用事が終わるとそこにいてはいけない気分になるのは、単に自分が小さい頃、自信を持つに必要なメッセージを与えられなかっただけだと頭で理解することである。そして自分は落ち着かないが決して相手は自分が感じているようにはかんじていいないとまずはっきり自分に言い聞かせることである。
そこで人付き合いのコツとして、自分は望ましい人間ではないと感じている人は、自分に自信を持っている人と接することである。自信がない人が自信を持とうとするときよく失敗するのは、心の底での自分は必要とされていいない感じ方をそのままにして自信を持とうとするからである。
自分に自信がないタイプのひとは、本当に不思議と自分のようなタイプを軽蔑するような人と接してしまうのだ。心のそこで自分を軽蔑していると実際の自分のようなタイプの人間を軽蔑する人に惹かれていってしまう。それは大変不幸なことである。


自分にたいして失望すると起こることは、自己断罪でる。自罰は無価値観や屈辱感からくる苦しみを消す最も有効な手段だからだ。自分をけなすことで、自分の持っている自己失望感を満たすというやり方をとってしまう。自分に自信がなければないほど他人や自分を尊重するひとと付き合わなくてはならないのに、自分に自信がないほどあなたを軽蔑する人と付き合ってしまう。

どうすればいいか?自然な感情に身を任せられる、防衛的にならなくてもよい人が恋人であり、友人であるとも言える。絶えず生まれてくる自分のなかから自然に湧いてくる感情に身を任せること、その自然な感情の流れに身を任せられるから親しい人といるのは楽なのである。自己実現的関係において大切なのは、私は貴方がこんなに好きだではなく、私は貴方をこんなに大切にしたいという思いにある。そして、内面世界を鍛えて来なかった人は親密さへの恐怖心がある。あまり近しくない人とはうまくいくが、親密になりすぎるとその人に不快感がでてくる。他人と親密になれるということはそのひとが自分を持っているからだ。

嫌われるひとというのは、心のなかに自信がないのに、自信があるふりをする虚勢を張って生きている人だろう。甘えの欲求がみたされていない。虚勢を張っているひとに必要なのは、あなたはそんなに虚勢を張らなくてもいいですよと言ってくれる存在である。
心の底で自分で自分の実際を拒否したひとは不思議というか当然というか、実際の自分を拒否するひとに惹かれていく。甘えていたり劣等感が強い人というのはマズローのコトバで言えば、欠乏に動機つけられているひとである。
自己が欠乏した人間というのは、他人に対して自分の感じるように感じてはいけないし、自分の価値観を持ってはならず、その人に期待するように感じ、期待するように行動し、期待したいようなことをいわなくてはならない。
自己実現したひとというのは、水が流れるからといって、岩が固いといって文句をいわない。このように自然を受け入れるが、同じように他人も受け入れるのが自己実現した人間である。

自分のおもな満足は他人の自分に対する反応によって得られるのではなく、自分の内面的な成長によって得られる。
繰り返しになるが、甘えている人や劣等感が強い人は本当に自己実現をしている人と付き合うことが大切である。

まず、どうすれば自己実現をできるか。自責の念、自己不完全感に悩む人はまず小さい頃から自分に与えられたメッセージを言語化することである。仮に子供が親から責められる。しかし親から責められていると感じることも禁じられている。子供は、強制的に自発的に反省の念をもつように仕向けられる。そういったことをひとつひとつ紐解いていくことが必要になる。
何の理由もないのになぜか今のこのままではいけないと自分を責め立てるのは禁じられた感情があるからだ。その感情はなんなのか。自分は被害者の立場に立たされながら自分は被害者であると感じることを禁じられ、逆に加害者であるとかんじるように強制された。なぜそのような立場を認めたのか。親から自分の存在を認めて欲しかったからである。まずじぶんが被害者であったことを認めること、そして、自分を責めたり、自分を罰したり、自分を卑下したりすることで他人に立派な人と認めてもらおうとするゆおなことを止めること。そして他人の不快な感情に責任をもつ必要がないことを自分に言い聞かせることである。そしてほめられたら喜ぶ。そして自分で自分に禁止していることはないかを振り返る。何の理由などいらない。行きたいから行く。それで十分である。自分が楽しむことは決して人を傷つけない、人間は楽しむことをしていい。ただ、小さい頃楽しむな、仕事をしろというメッセージをあまりに受けたので人によっては楽しむことに罪の意識を感じる。
他人の褒め言葉を素直に受け取ることを自分に許すこと、行きたい所に行くことを自分に許すこと、お金があれば自分の買いたいものも買うことを自分に許すこと、お酒を飲んで楽しむことを自分に許すこと、時に怠けることを自分に許すこと、それらに口実を作らないい事 お前はお前であって構わないと許可すること とにかく自分が満足すること、自分が幸せになることを許すことが大事になってくる。生きることを思い切り楽しむのは良いことだ。幸せ一杯になることは良いことだ。うれしい時には思い切り嬉しさを表現することは良いことだ。そして自分を惨めに見せることで他人の好意を期待することを止めようと、自分に約束することである。
自分の内なる幼児性に気づくことは大切である。自己実現とはそのように自分の内面の真実にひとつひとつ直面していくことでもある。なんだかわからないけれど不愉快だというとき、いったい自分はなにを自分自身に隠しているのだろうかと、一体自分はなにから目を逸しているのだろうかと考えることである。

ひとと親密になれる能力のあるひととは、甘えの感情が満たされ、そのあとほっといてくれという孤独の欲求が満たされ、それがたっせいされてから人と親密になれることができる。
内面のあるいと、家にいると身を固くしてしまうひと、それはまだ自分の親との関係が精算されていないひとである。いろんな点で親とのあいだに未解決の問題を抱えている人である。親離れできるとは、心理的に自立できる、自分で自分を頼りにできるということである。ひとりぼっちになっても心細くないということ
まず生きるためには、社会的挫折というものを見がちだが、心理的に挫折したのはどこだったかということをきちんと見極めなくてはならない。それができて情緒的に成熟することが出来る。

自分をかくしているひとは、他人の好意に甘えられない。そのひとの自己無価値感からか、自分の身勝手な利己主義を隠している。そういう場合、常に心の底にある自分を自分にも他人にも隠して生きている。心の底では自分は他人の好意を受けるに値するような人間ではないと感じている。そうすると他人の好意に接すると不安になる。また、そういうひとは自分がしっかりとその集団に所属しているという感じを受けることができない。自分の周囲の人々、或いは貢献するからこそ、その仲間に受け入れられていると思っているのである。自分がいては迷惑だ、すまないというのは自分を拒否しないでくれと同義語になる。そういうひとは自分が自分のままで受け入れられ愛される共同体を小さい頃持てなかったのである。共同体は企業のような機能集団とは違う。共同体はいるだけであんじて売れ入れられることをいう。相手の目的に叶わなくても自分はあいてに受け入れられるのだということを知った時、人間は救われる。それこそが愛と言う名にふさわしい愛なのである。自分のやりたいことと、相手が自分にやることを期待していることが違った時、自分のやりたいことをしてしまうのが相手の好意に甘えることである。いま、目の前にいるこの人は自分の周囲にいた我執のひとのように、自分が尽くさなければ激しく拒絶するひとではない。自分が尽くさなくては私を相手にしてくれないという人ではない。私はこのひとの期待を叶えようとして緊張しなくてもいいんだとかんがえられるようになれるか。
そして以外に多くの人が他人は愛されても自分は愛されないと感じている。そんな被害妄想的な意識が案外多くの心のなかにある。

最後に、自分を頼りに生きようと本気で心がければ、貴方を愛してくれる人と出会えるかもしれない。しかし、自分を頼らず捨てられる不安でいきるならあなたはいつも犠牲者のままだ。ある人々との別れというのはたとえどんな人であっても寂しいものである。しかし、その空白はこれから出会う人々によって充足していかなかればならない。
自分が言っていることの嘘に自分が気づけばほとんどのことはうまくいく。



2013年6月12日水曜日

ぐっどうぃる博士の恋愛相談室 読書メモ

ぐっどうぃる博士の恋愛相談室
男が本当に考えていることを知る方法 読了

はじめは恋愛の話から始まって、最後は因果律、縁、祈りの話になって終わる。
なかなか興味深い本だった。



生命科学の考えかたを援用し恋愛相談室に載る本

考えかたの基本線は、人間は自分で考えているようでいて、プログラムに沿って動いていると捉えている点。恋愛(人生)で苦しむ大きな原因は無知であり、それはスキルとして身に付けることができる。

落ちない男を落とす方法

見た目を磨く 綺麗ということはセルフブランディングができているということ
彼に気があるとバレるな  男の本能は狩猟
価値観世界観を褒める 
劣等感と過去の傷をさぐり、慎重に扱う
中身を磨く 男心を知り、男を許せるか、男性をそのまま受け入れる能力があるか
駆け引き

相手の中に恋愛回路を作れ。そして自分のなかにある恋愛回路を小さくせよ
恋愛回路はろくなことをしないので、距離をとり、自分を客観視することができるようになれば相手に惚れすぎずほどよい恋愛ができる。愛と執着を取り違えることもなくなる。

逆に相手のなかに恋愛回路を作れば、男性の心を動かすことが可能になる。
相手があなたを好きでいること
手にはいりそうで、手に入らない距離感をつくる 手に入れたものには興味を失う
彼にとって貴重な存在でいること

典型的な恋愛の流れ
1女性の見た目を好きになる(それには性格の良さも含まれる)
2その女性を抱きたいと思うようになる(ただの性欲)
3女性が手にはいりそうではいらないことで恋愛感情が生まれる
4男性からきちんとした意思表示をしたうえで付き合う(相手の覚悟を迫る)
5身体の関係をもち、上手に恋愛を続けると愛情や執着が深まる
(彼に尽くし過ぎない、駄目だしをしない、手に入れたと思わせない)
6女性から一方的に離れたりすることで、突然つよい執着心が芽生えることがある

しょせん人が人を好きになるなど執着でしかないというのが、ぐっどうぃる博士の根底にある考えかたの一つだ。

男の建前と本音
言葉はひとを動かすために使われる。ただ、行動では嘘をつくことはできない。

駆け引きの仕方

まず相手を知り自分を知ることが大事になる。

駆け引きをするために、相手の情報を収集する。
見た目は固有の因果を生む。
価値観や世界観を知るために会話をする、最終的にはその人の哲学までたどり着くと最高だ
其の際は、自分の感情は読まれないようにすること、感情を読まれることは不利に働く

それと同時に自分自身を知ることをしなくてはならない。 
性的な魅力、人間的な魅力は大事なファクターになる。
ほとんどすべての人は本人のコンプレックスは見抜き、それを本人の前では語らない
相手はあなたをある役割をとおして見る。
批評の言葉は、評価している人の価値観を映す鏡である。
自分を知ることは究極的には不可能であるが、近似値まで近づくことはできる。

相手の情報を集め、それをシュミレーションをしてみる。自分の心のなかで動かしてみる。
そして、行動してみてシュミレーションどうりだったかを確かめる。PDCAサイクルを回す。
人は基本的に感情で動いている。だから感情を思い浮かべることが重要になる。

シュミレーションができるようになったあと、シナリオを描く。相手を物語のなかに引きこむ。
シナリオは長期間で見ることができるひとが強い。
そして行動を一貫させる。言葉は嘘をつけても行動では嘘をつくことはできない。

嫌な相手から告白された場合。相手を傷つけることはしょうがない。早めに引導を渡すこと


ひとは感情で動いているが、その感情をコントロールできるようになる必要がある。
ひとは道理や理屈では動いていない。基本的に感情で動き、そのお化粧として理屈をつけているだけだ。人間関係では誰が正しい、間違っているというよりも、相手がどう感じているか、相手にどう感じさせているかが重要になってくる。

基本的に男性は,女性に尽くして喜ばれるときに快感を味わう。
そしてそれに対して喜び、ほめられた時、本能的に自分の能力が認められたと感じる。

不幸な恋愛をするタイプ
1人は何かに依存しなくてはいきていけないが、それが恋愛の人
2精神的に弱い 誘惑にすぐにまけてしまう
3人間のこころをわかっていない
4過敏に反応したり、感情的に行動してしまう
5ネガティブな考えに支配されている
自分以外のせいにしてうまくいかないと考えるタイプと、自分で自分にダメ出しをするタイプにわかれる。自分で自分を駄目だしするタイプは、人から駄目だしをされるのを恐れるあまり、はじめから自分に駄目だしをしてしまう。そして、自分の言葉を信じるようになり、心が破壊されてしまう。
対処法は、楽天的な友人と交流をもつこと
人間は基本的に自分のことにしか興味が無いという性質を知ること
6自分を知らない
7他人のこころが理解できない
8弱い男と関係を持っている 「自分が被害者だと思っている人間が一番怖い」

女性が男性を選ぶ方法

サバイバルスキルをもつ男性、自分にとって心地より時間を提供してくれる男性を選ぶ

見た目 、生まれつきのものと、服装や筋肉などのように後天的に身につけたものがある
優しい男性 多くの場合、男性の優しさは欲の裏返しでしかない。
能力のある男性 ただ、それをどこに振り分けるかは男性次第
夢を語る男性 具体性のある夢か 言い訳のための夢か
誠実な男性 束縛するタイプ 非常にモラルの高いタイプ 過去に恋愛で傷つけ傷ついたタイプ


どんな男性がいいか。
恋愛で痛みを味わい、そこから学んだ男性を選ぶと良い。


運命とは何か

自分たちの運命を決めているのは、お金、生育環境、性格、見た目、兄弟構成、知性、運動能力などそれぞれが固有にもつ要素からその人の行動や思考パターンが生まれてくる
そして、その行動、行動によって生まれる性格、性格によって作られる人格 によって因果律が決まってくる。だからその因果律を変えたければ、まずじぶんのもつ因果律の中身を知ることである。自分のもつ因果律を変えることによってしか、人は変わることができない。

意思決定は基本的に感情が行なっている。そして根本には欲望がある。欲望が感情を沸き立たせ、感情の満たすための選択が行われる、その仕組みはかわらない。なので、人生の知恵としては自分がどうしてこういう選択をしているのか、それを徹底的にふかく知り、なぜ自分の行動がこうなっているのかを知る知恵を身につけることである。あなたが幸せを得たいなら、貴方にとって幸せとはなんなのか?を知ることが重要になってくる。自分を知り、自分の世界観を知り、自分の選択のStyleを知り、それがどういう経緯で生まれたかを知る。それができると自分に合った幸せというものを見つけることができる。

縁について

諦め
すべてを得られるわけではない。
出会った人とは必ず別れる。だからまず、自分を大切にする。
すべては一次的で次々に変わっていく
手に入れたもので満足するものはない

もうひとつの方法

祈り 毎日祈ること、神という絶対的な存在を作り出し祈ること




ゴールデンタイム 3 仮面舞踏会 感想

ゴールデンタイム 3 仮面舞踏会 読了




なんというか、2巻の告白が実り、なんと万里と香子が付き合うことに!!!
まさかというかこういう展開になるのは、もっと先延ばしするのかと思っていた。
一番クスっとしたのが、香子の両親が万里と付き合うのに反対している理由が、
香子に付きまとわれたら万里君の人生がくるってしまうという自分の娘を超絶綺麗だが、精神的にはだいぶ不器用極まりない他人に迷惑かけちゃう存在だと考えている所が笑えた。ラノベなのに、竹宮ゆゆこの本には両親が出てきて、そこが読んでいて落ち着くが、とらドラの時ほどは親の影響は出てこない。

それにしてもイケメンな設定なのに、柳澤が性格的にそんなに成熟していない平凡で人間臭い点が愛着湧くなあ。
もう3巻までくると、基本的にはファンしか読まないようになるし、性格もきちんと把握することができてくるので、みんなが生き生きと動き始める。
岡千波はアニメ声のちっこい可愛らしい生き物にも関わらず、けっこう自己顕示欲が強いし。

リンダこと林田奈々と記憶を失う前の万里のあいだにあった愛情と友情のいっしょくたのものを幽霊になった過去の自分という存在が気にかけて、そこがこの巻のキーポイントになっていく。

過去の親友と恋人のあいだのような人が記憶喪失になり、そして一年後別の出会った時、女性のほうはその過去を思い出さないように初対面かのように振る舞っていたこと、その嘘が万里が静岡の実家で写真を見つけることでバレてしまって、

万里自体、自分自身の過去が失われてしまったことに対しての悲しさをもっており、いまの自分は仮初めであり、周りの人は昔の自分が返ってきてくれることを望んでいるんだと思ってしまっていることなど、ただでさえ自我が怪しくなる時期に拠り所である過去を失った青年というのはどう生きていけばいいのだろう。そのために逃げるように親元を離れたのに、母親は以前と変わらないように接してくれるのだ。
いまの自分を愛してくれる香子と、過去に愛していた(ただ親友どまりだった)リンダのあいだでどんどんと揺れ動いていくという話につながっていく。

夜になり、下宿先での飲み会、そこでの会話、そしてベランダで話たりする、何気ないことがものすごく美しく懐かしくなってくるのだろうな。対話をすることを竹宮ゆゆこはものすごく重視している。だからこそ、とらドラ!が名作になったのだろうし、いまはまだとらドラ!の期待感で読み進めているだけだが、どこかで大ブレークしてくれると期待しながら読んでいこう。





円安VS円高 読書メモ


円安VS円高

どちらの道を選択すべきか 読了

初めて藤巻氏の本を読んだ。宿輪先生の宿輪ゼミには十回くらいでているから宿輪先生の話は既知のことでもある。
日本は量的緩和政策をずっと続けていたが、それは銀行団やゆうちょ銀行に流れて、結局は外にお金が流れず、円安にならなかった。そして今は国債の日銀の市場買い付けを求めている。これによって基本的に国の財政規律はどうなるのだろう。。。
結局は、どうしても社会主義国家のように国が政策をコントロールしうる半官半民の企業がある以上、真の資本主義国家にはなりえず、為替の自動調節機能が働かないという主張。

たしかに藤巻氏のいうように通貨政策で、円安誘導に持っていったならば、輸出企業の景気はよくなるだろう。だが、残りの国内サービス業は?国内市場がどんどんと縮小していっているのだし、国力に応じた円の水準になるべきというのは理解できるが、現在の貿易赤字http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_eco_bop-balance状態で、円安が進むというのはより大きな赤字を生まないだろうか。

そして藤巻氏の基本的にすでに日本には赤字が900兆円あり、インフレや景気上昇で長期金利が上がるので国債を償還することができない状態になっており、すでに破綻している、すでに遅すぎたというのは納得できる。http://econdays.net/?p=8509 ここに同じような記事が載っている。

ただ、通貨庁を作ろうという案は面白いのだが、官僚の知り合いなんて一人もいないからそれが有効なのかどうなのかはよくわからない。ただ、通貨のことを専門に考える集団があるのは悪くないなと思う。

ただ、日本は国力が落ちており、貿易赤字国に転落しており、アメリカがシェールガス革命がうまくいけば資源大国になり、ドルが強くなることになるので、早晩円安傾向は続いていくと言っているし、累積赤字が膨大で円安傾向にして、日本を安く売ることで経済を活性化させようとするのは悪くはないアイデアだし、そうならざるえないんだろう。

この方の言っていることは、経済の状況に合わせて為替がうまく変動するようにしていくよう政府が介入も含めて政策を実施しましょうということなんだと素人ながら感じた。

宿輪先生のほうは基本的には為替相場よりも、企業の競争力の源泉は生産性にあるという考えかた、円高を容認しているのではなく、円安になろうが、気概をもって競争に打ち克つ革新を進めていかなくてはならないという考えかた。
安倍政権の三本の矢の三本目の成長戦略や構造改革を行うことでしか、一旦円安で一息つけてもその後ズルズルと低位均衡に陥ってしまい、衰退を招くだけだと言っている。
そのなかでTPPへの参加は、シェールガスを輸入できるメリットも含め、自由資本主義社会へと日本国を変革することの起爆剤になるのではないかと踏んでいる。なにより経済政策のなかで重視すべきは、雇用の安定・拡大だという。海外からの投資をどれだけ募り、そこで雇用を生むことで需要を喚起することができると考える。

そのためには、透明性の確保、規制撤廃、法人税含め地方分権化による各地方での競争、
各人に与えられた時間をつかって絶え間ぬ自己鍛錬と成長。そういった生産性をあげ、イノベーションを起こす環境作ることで経済を復活させようと考えている。

藤巻、宿輪両先生とも日本は社会主義国家であり、真の自由資本主義社会に変革しなければ、今回のアベノミクスも失敗に終わるという点では一致している。
そして、その改善方法は、藤巻氏は円安にして企業業績、雇用の拡大安定をもたらし、余力をもって資本主義へ改革に望むべし。
宿輪先生は、この苦境こそが、資本主義へ改革をする大きなモチベーション、危機意識に繋がり、生産性を向上させる機会になると踏む。
道筋が違うだけで、どちらにせよ経済政策とは、雇用・雇用・雇用なのだよな。







生命保険に関する本二冊 読了

生命保険の罠 読了




保険に自分が入らなくちゃいけないなと思って、でもなにに入っていいのかわからず、勉強の為上記二冊を読んだ。

結論として、結婚していない以上、まだ本当の意味での保険はいらないのだなということがわかった。共済で十分賄っていけるくらいだ。




まずもって生命保険についての割りの合わなさというのを感じさせてくれる。
保険も一種の金融資産ではあるので、絶対的に有利な取引というのは現在では存在しない。そのなかでも生命保険に関しては、わかりにくさや「もしもの時」を大げさに言ったり、お祝い金(ただ先払いで支払っている金が戻ってくる)などで、誇大広告が多い世界などだと感じてしまう。
まずもって、難しすぎる。たくさんの保険パッケージがありわかりにくい。比較検討ができないようにわざと設計しているのではと勘ぐりたくなるくらいだ。

自分の私淑している先生が言った言葉に、その金融資産のことがわからなかったら買うなというふうにアドバイスをされた。そのこともあって、わかりにくいという保険はすべて自分の中から排除することができるようになった。

外資系ライフプランナーのコンサルティング方式の売り込みのマニュアル方法や、日系の大きな生命保険会社の極論を振りかざして相手を不安がらして加入を推進する方法などもさらっとだが、書いている。
養老保険は、基本的に貯蓄分と保険分の二本分のお金を支払うことであり、掛け捨ては保険分だけ支払う。ただそれだけの単純なことだったんだというのも、この本を読んでわかったこと。

保険の入り方というのは、貯金が間に合わないときに入るもの

保険の存在価値は家計の収支がマイナスになるような「多額の出費」貯金が尽きるような大幅な収入減に対応することに尽きる

保険の価値はその一点に絞って考えろということらしい。それならば理解ができる。

だから起きる可能性は低いけれど、影響は大きいという事柄については保険は極めて有効な手段なのだが、バランスというものがある。

保険のプロが入っているのは、バブル期にでた養老保険(保険ではなく金融資産として)
万が一に備える場合は貯蓄性など気にせずできるだけて低料金のものを利用する

保険の組み方
まず優先順位をつける
そしてあれもこれもと欲張らない

まずもってこの本で保険業界のことを勉強した。

其の次に読んだのが

生命保険のカラクリ





岩瀬大輔氏というライフネット生命を立ち上げた一人の本

まず、バフェット氏がインシュアランスが本業だったということもこの本で知った。
そして、生命保険を最も必要とするのは、子育て中の若い世代だということもわかった。
そして、万が一のときに生命保険に加入しているか否かで残された家族の人生に大きな影響を起こすこともわかった。でも、それは家族がいるというときのみだ。
人生で家に継いで二番目に大きい買い物、保険という言葉が印象的だった。
家を買うときは何度も検討して悩みぬくのに、保険に関しては、生半可な知識や義理人情で入ってしまっているのではないだろうかというのは胸に刺さる。
コチラの本は、生命保険業界の内情を書いている。利益率が8.9%と世界の会社に比べて突出して高い点、生保レディーを養うための人海戦術を維持するために高価格の商品をできるだけ売っていこうという会社業界側の意志、またバブル期に高利回り商品を出しすぎたために、運用損がでていて、それを今の保険料を上げることで賄っていることなどが書かれている。

やはりこちらでも、生命保険の理解し難さが書かれている。そして保障と貯蓄は分けて考えなくてはならないと言っている。保障は万が一発生確率は低くても発生すると大損害。貯蓄は起こる可能性が高い子供の養育費や老後の資金などが挙げられる。保障は、加入時点から満額の保障を得ることができるので、十分な備えを持っていない人が時間を買うために入るものとも言える。
そのため、ある程度時間を区切って必要な範囲に限定して加入することを勧めている。

掛け捨ては損というimageがあるが、基本的には保障を購入しているので、得も損も存在しない。貯蓄性の高いものはただその分多めに支払いをしているだけのことなのだ。


何に備えるか

1、いざというとき残された家族の為の所得補償
2,病気、ケガによる入院手術の保障
3,将来に備えるため

1は生命保険でしか賄えない
ただ、2に関しては、日本は公的な健康保険制度が充実しているので(高額療養費制度)(今時点)補助的な考えで問題ない。3に関しては、貯蓄は投資ですべきもので保険会社ですべきものでもない。

基本的に保険は保障の対価なので、純粋にお得な保険というのは、この低金利時代には存在しない。

そして最もよい保険は自身の貯蓄である。これはなんにでも使えるし、制約が一切ない。
それを用意できないために保険というのが存在しているのだ。

この本では保険業界が、バブル期に簡保や農協共済などと競争し、利回りを上げすぎて払いきれなくなり、契約者の不利になるような保険見直しをさせたり、死差益という推定死亡率を下回った時に発生する利益をそのバブル期の後遺症である負債に転嫁したりしていることなどが書かれている。
そして、最後のほうは、自社であるライフネット生命のメリットで絞められている。
保険は悪いものではないし、かと言って過剰に入るものでもないということがこの二冊の本から得た知見だった。

基本的には、金融資産だということで得も損もないこと
わからないものには、ぜったいに入らないこと
貯金こそが最高の保険だということだ。

それを学ぶことができた。














中学生からの哲学超入門 読書メモ

中学生からの哲学入門読了



竹田青嗣という哲学者がどうして哲学の道を志したのか
20歳くらいのときに一度自我が壊れるのだが、そのとき心の病にかかり、それから自己修復することを経験した。
もうひとつは、自分の理想が挫折して「世界」が壊れてしまい、運良く自己再生することが出来た。
この自我と世界の崩壊と再生の経験が哲学を志した理由というのだ。

このひとの挫折というのが、民族問題で翻弄されたこと、それによってマルキストになり一般の就職ができなくなったこと。

この経験で得たことが、人間が若いころどういう考えを正しいと考えとして持つのかははじめのたまたまの入り口に大きく左右される。はじめの「信念」をそのまま信じるな。一度検証し直さなくてはならない。

その時、アイデンティティと将来の展望を失った時に救ってくれたのが文学だった。
それとフロイトの夢分析だった。ただ、フロイトは無意識を発見したが、すべてを性的な抑圧で捉えてしまって、竹田青嗣の自己を説明することができなくなった。むしろ夢とは解釈は自分がどういう風にこの夢を見て、感じたのか、夢を見たことで自分がどう感じたかという自己確信がないとどうしようもないと気がつく。

そのなかで、自分の感情には、絶対にそうで思えること、なんとも確信のもてないこと、其の中間点というみっつの領域があると考えた。

確実なことを重視すれば、真理主義や科学、確信がないことを重視すれば相対主義、懐疑論になる。

ただ、確実か確実でないかという線引は、自分自身が持っているという結論に達する。

彼は心の問題は絶対的な答えは取り出せない。謎のまま、ただ、むしろ自分自身「ああ、こうだったのか」と納得できる自己了解の問題だと考えた。

まず人間がなにかを認識するという時、「事実を知るということ」と、「納得する了解する」という問題は本質的に違うということ。 「事実を知る」というのは誰が見てもこう見えるということだが、「納得了解する」は自分の中でこういう風に了解する以外ないという形でしか解決することができない。

人間社会の問題には真理を持ち込んではならない。人それぞれの真理を持っている。その多様な真理をどう他人と条件をつけて交換していき、共有していくか調整していくかが大事になってくる。

人間にははじめ家族、社会、友人などから自然に受け継ぐ世界観があり、その後本など、大学などを通じて世界に対する新しい見方を提示する、そして、その新しい見方がうまくいかない挫折がある。それはよく異性に対しての失恋という形をとることも多い。また、その新しい世界観への極度の献身を自己犠牲を要求され耐えられなく挫折してしまう形かもしれない。
その後、自分の世界というものが破壊されつくされた後、自己修復力によって世界が復元されてくる。生きている限り、食べ物を欲するように世界は必ず復元してくる。そういった欲望を人間には備
わっている。

そのとき、そのひとにとって何が大事かというと、どんな欲望を持っているのか。
その欲望は世界が再構築されないと見えてこないが、再構築するカギは欲望であるという
相関関係をもっているという。


次は宗教と哲学の違い

哲学とは、自分自身について自分で深く考える方法

宗教は死んだらどうなるだろうという自我の不安から生まれた
結果として物語として、世界の意味をあたえられる。
そこには哲学とは違って、真理が与えられている。

哲学とは、概念をつかってどういった原理でうごくのかを普遍的な考えかたを探し出していく。

そこに大きな違いがある。宗教が真理を求めるゲームだとしたら、哲学とは概念を用いて、原理を置き、過去の哲学者の考えかたに対抗した新しい原理を用いて説明するゲームである。

そして哲学で最重要なことは、世の中にははっきりとした答えを見いだせる問と、問うても決着がでない問があるということ、この原理が腑に落ちれば、ひとはどれだけ聡明になれるか


なぜルールがあるのか

哲学というのは、ルールがあり、それぞれのキーワードとなる原理を持ち寄り、少しずつ鍛えていくものであるという。そのなかで本質を見つけるというのは絶対的な認識を見つけるのではなく、みんなの中に共通の了解を作り出してゆくことになる。
もともと言葉のゲームだった哲学は、なにかを言い当てる道具ではなく、個々人の経験を共有していくための道具だった。

民主主義の社会では人々は平等で自由だと認められている。さあ、それは誰が認めたのか?特別なひとが認めたのではなく、相互にお互い認め合っていること、多くの個人が関わるのでルールが発生する。ルールなので、人間はべつに平等で自由であると誰かから認められているわけではない。それで、自分の親や学校はルールを制定し、自由の相互承認をできるようになってからはじめて、そのひとにも自由を与えられるようになる。
そして社会のルールの設定の仕方はどれならば大多数の人がまず納得するよりほかないというモデルを探すことになる。多くの人間の自由と価値観の違いを前提としてこれならば誰もが認めざるえないものとして可能な社会モデル、社会の理念こそがルールになりうる。

またルールには社会的なルールのほかに自己の内部にルールを持っている。それをヘーゲルは身体的欲求、自己欲望だと言った。また親からの教育、生育環境によって自分独自のルール、見方をつくってしまう。それは性格とも言えるものかもしれないが、まず自己の見方を見つめることではっきりと理解することはできる。自己ルールとは言い換えればよい、わるい、美醜のルールになる。その自己ルールを他人と交換しあい、批評し合うことで調整しあっていくことができる。ひとは友人と自分のルール(原理)を批評しあうことでしか、自分のルールを見ることができない。

そして人間の欲望は自己価値欲望といえる。それには他者の承認が必要になる。承認をもとめるゲームになっていく。そこで、近代哲学は、肥大化する欲望をどう抑えるか、他者の欲望を認め、そのうえで争いが起こらないようにしていく社会のシステムをどう構想していくのかが問題になっている。人間にとって他人の存在は生きることの根本要素 自分に承認を与えてくれる唯一の存在だが反対に承認を奪いうる唯一の存在でもある。
社会とは欲望の普遍的競争であり、人間を突き動かしているのも欲望によるものであるという。そのなかで必要となってくるのは、自己ルールのなかの原理を取り出して見ること、そしてそれを他者との関係性のなかできちんと維持構築できるようにしていくこと、そのときに原理を考える哲学的な考えかたが物凄く有効になってくる。

幸福とは何か

自分についての物語=歴史こそが自己理解の中心部分になってくる。
生きるということは自分の過去=歴史があり、そこに意味を見出す物語を作り出すことに寄って生きることができる。
主体的生き抜くには、自分の意志をもつことの重要になる。
ヘーゲルがいう自由とは
自由な意志によって結合された家庭 自分の意志による職業選択 国家の一員になること
だったのだが、現代社会ではすでに自由は達成されてしまったことでもある。
そのなかで資本主義のお金への欲望が持ち上がってきた。
ただし、この欲望は競争が激しく、ほんの2割程度のひとしか満たすことのできないものでもある。そのため、この欲望を一度再検討しなおす時期を持たねば幸福になることどころか不幸になってしまう。
ここで大事なのは、再度自分の意志を持つことではないかという。
第一に自分の言葉をしっかり蓄えること、第二にフェアな友人関係を大事にして、其の中で生き方にたいして批評しあうこと

人間は欲望を抱くのが自然なので、それに振り回しがちになってしまう。それを再検討しなければ、自分自身が欲望の奴隷となり、マスター(主人)とは成り得ない。
再度、自分自身の必要な欲望を吟味し、それを執着していないかを点検しつづけなくてはならない。それをしてこそ、自分の生への意志を持つことができるようになる。

自分の欲望がほんとうに自分を活かすものなのか、他人との関係をスポイルするようなものではないのだったら「ファンタジー」だったと考えてしまっても良い。社会は競争にまみれていて、その度合は年々増していく。自分の持っている才能と照らし合わせ、再度の自分自身の欲望への再検討をしていくことができるかどうか、第三の道として自分固有の欲望を見出すことができるかどうかが幸福に生きるかどうかに繋がる。

自分の意志を持つということは、自分の幸福の条件を才能や運に任せるのではなく、自分でよく掴み直すこと、言い換えれば自分で自由の条件を考え、作りなおすことにほかならない。





あまりに長くなりすぎて、まとまっていない文章だ。こういう読書メモは本当は30分くらいで本質を抜き出して書けるようになりたい。













社会を変えるを仕事にする 読了

社会起業家という生き方




社会を変えるを仕事にする 読了

駒崎弘樹氏http://www.florence.or.jp/ NPOフローレンスの代表
病児保育という問題にひとつの解決策を投じた人として有名。

彼の人生がどうやって学生ベンチャーから社会起業家という道に進むようになったのかの自伝
自伝を書くには早い気がするが、それでも彼は後に続く人を作りたいから自分の過去をきちんと本にのこしたのだろうか。。。

たしかに社会に役に立ちたいという思いは普通すぎるのだが、それがタニマチや寄付や補助金などに寄らないで、NPOであっても経営でありビジネスであるということをきちんとした形で実践された最初期の方だったと思う。一度公演を聞いた時、何度も経営感覚という言葉を口にしていたのを覚えている。

ほんの20年前は、まだあちこちで地域社会が生きていたのだが、経済が駄目になるにつれて、商店街もなくなり、地域社会が瓦解し始めた。それを政府が援助したのがスウェーデン方式だったが、日本の場合、そんな財政的余裕もなく、税率を高くすることもなかったので、放ったらかしになっていた分野だった。そこをこのNPO社会起業家という人種は埋めていこうと決意した。

そして、それの立ち上げのときの助成金の取り方、それをだまし取られそうになった時の話。ロビイングの重要性、商店街のひとと話すときにはそれなりの場にあった言葉使いやコミュニケーション方法があることなど、実体験を書いていく。なんか情けないくらいに空回りしていくのだが、その姿がなんとも面白く、自分で追体験しているような気分にさせてくれる。

いろんな人の支援があったのも、この社会性という意義そのもの理念そのものに共感してくれたひとが多かったし、それによって実際多くの母親が救われたという事実も合ったからなのだと思う。

ほぼほぼ同い年ながら、立派に社会を変えていることに感銘を受けた本

アイデアの作り方 読書メモ

めちゃくちゃメジャーな本



ジェームス・W・ヤング

アイデアの作り方

まず、アイデアは習得する技術であること。そして修練によってみがきあげるもの。
そして、アイデアに夢中になるタイプのひととアイデアに保守的な人の二種類に分割することができること

有名な言葉である

アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ 以外のなにものでもない。

そして第二の原理は既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性を見つけ出す才能に依存することが大きいこと

アイデアを作り出す技術は5つのステップを踏む

情報収集 これは その仕事のために必要な特殊な情報。もうひとつは一般的な情報資料を集めることをいう。どんなものにも好奇心をもち集めていくと、組み合わせをする時の情報量が増え、新しいアイデアが生み出しやすくなる。

第二段階では、これらを咀嚼することが必要になる。個々の資料を眺めながら、それらの関係性を常に考え続け、違った角度で眺め、その意味を探し求める。其の際は、事実というものをまともに直視したり字義どおりに解釈しないほうが一層早く意味の啓示を得られる。

そのとき生み出された仮のアイデアは常にメモに書き記していくこと。それがのちのちの本物のアイデアにつながっていく

第三段階は、問題を放置する。無意識に勝手に働くことを待つ。そのときできるだけ自分の想像力を掻き立てられるものに心を移すこと

第四段階は、髭をそっていたり、街を歩いていたりするとき、寝床にいるときなど、アイデアが天啓のように降ってくる。それをきちんと記録する。


第五段階は、これらのアイデアを現実に適用できるように具体化させ、展開させるようにする。



河合隼雄 日本人とアイデンティティ 読書メモ




河合隼雄
日本人とアイデンティティ 読了



青年期に敗戦を迎え、世界に負い目を感じた
その後、西洋崇拝、日本嫌いになったが、
いくら努力しても自分は日本人であることを
認めざるえない。だからといって日本人は
素晴らしいという愛国者になるのではなく、
日本人は日本人なりの特徴を自覚しつつ
それを基にして国際性を持たねばならない。

欧米人が個としての自我をもつに対し
日本人は常に自他との相互関連のなかに存在する

欧米人が男性像ならば日本人は女性像で表す

日本人としてアイデンティティを確立するには、
西洋の文化を取り入れざるえないなか、
どうやってそれを文化のなかに消化しきれるか
にかかってくる。そのためにも、
もっと一神教の考えに取り組む必要性がある。

人間は様々なことを成し遂げることが出来る。
それでも人は死ぬ。そのとき、仮に持っていけると
というものがあるならばそれは「たましい」なのかと
仮定する。=それは普段意識できない無意識の集合体のことを指す

フロイトが幼児期に注目したのに対して
ユングは人生の中年期、老年期に注目した。
ひとは成人以後も一生発達していくと捉え直した。

日本には、西洋の考えかた、そして東洋の考えかた
その両方が持ち込まれており、生きていくためには
どちらか一方に与するのではなく、どうにかして
それらを統合するという創造を行わねばならない。

例えば場の論理として、全体のことをかんがえて自己主張を
抑えてでも場の平衡状態を保つ必要がある
反対に、個の論理では各人の自己主張を明確に言語化することで
平衡状態を作り出すことを目指す。

どちらが正しいというのではなく、二律背反したものをどうにか
統合していくことが、創造するということになる。

自己実現とは、単純な表面的な幸不幸ではなく、意識を越えた
無意識のうちに避けて通れないとおもわれる行動や相手を選んでいる。
それは、人間のもつ無意識の大きな流れであり、意識だけでは
対処することはできない。その大きな流れの中に自己がいるということ
を認識する必要がある。結果として、表面的には不幸になることも
あるが、精神的自己実現的には是となることもある。
が、対峙するとき必ず常世の幸せというものを願う必要がある。
その願いがあるからこそ、自己実現という捉えがたいものに
ひとつの形をあたえることが可能になる。

コンプレックスとは、自我の維持に危険を及ぼすものを意識しないが
明確に存在するものを心の奥底に眠らせ、それによって自我は統一性
を保つことができるが、無意識のなかに危険性は放置されたままになる。

コンプレックスは感情とつながり、意識とは相反する喜怒哀楽を表現して
しまう。ただ、コンプレックスになるということは、自身の人生にとって
大事なもの、危険を感じるほどのものだったため、これと向き合い、
自我との統合をすることでより発展的PROCESSに乗ることができる。

コンプレックスは基本的には、自我では捉え切ることができない。
そのときに自我が低下する夢の世界に飛び込む必要がでてくる。
夢がコンプレックスに対してなにを言っているのかが知りたく
なにがコンプレックスであるかはさほど重要ではない。
コンプレックスが個人の人生にどんな影響を与えているのか
そちらのほうが重要視する必要がある。

ただし、コンプレックスは簡単に捉えられるようなものではなく、
むしろ自己のなかにもう一人の自分を抱えていて、彼と対話するように
するように接する方が建設的になる。



想像力とは、あらゆる創造活動の源泉になっている。
そこにはどれが正解ということはなく、むしろどんな問題を探し出してくる
かそのことのほうに重点をおくべき。
その際、創造のためには、抑制者、または制約が必要となってくる。
それに対するぶつかるエネルギーによって対立によって物が創造される。

人間にとって己を越えた存在というものを知り、それとどう向き合うかは
大きな課題だった。己を越えた存在とのぶつかりは大変危険でそのなかで
死とも密接に繋がることもある。そのために、人間は儀式という方法を
開発した。
その儀式を聖と呼んだ。そして日常を俗とした。
その日常を脅かす存在として、自由である遊びというものができた。
聖も遊びもどちらも日常とは対立しているが、遊びは日常が強くなると
すぐに砕け散ってしまう存在でもある。
聖⇒日常⇒遊びという階層が存在する。

自分がこの世で生きていくためには我々自身を組み込んだ体系をもたねばならない。
自然科学は強力に世界を発展させてきたが、客観性ゆえに自己の入る余地がない。
それをイデオロギーという他人の体系ではなく、自己の中に世界と自分を組み込んだ
物語を作っていかなくてはならない。



その際、物語とはお伽話という形で語られる。それは表面的に見える世界のもうひとつ
別の世界を映し出すものである。
そこに語られる物語は、危険であり死と生の再生の物語が多数占めている。
人は何度も精神的に死に、そして生まれ変わり成長を続けていくからだ。
物語には、なにかを放棄する瞬間だったり、対決する瞬間が書かれている。
それは自分の人生のなかでも行わなくてはならないことを物語として先人たちが
書き示してくれたものだとも言える。
そこには、日常とは別の価値観が入っている。例えば老人とはなにもできない非生産的
な存在として捉えていることがあるかもしれないが、物語の世界では
なにもできないからこそ価値があるというふうに捉え直されている。


いまの人たちは、やるべきこと、やらねばならないことが多すぎて、やりたいことを
ないがしろにしている。やりたいことこそが心身ともに全人格が関わってくるので
それによって心が回復してくる。好きな事は人を活き活きとさせる。

河合隼雄はユングという人物の日本への紹介者ではあったが、
彼自身の心優しい文体で、魂の問題に迫っていき、間違っているのかもしれないが
自分の中ではたくさんの知見を得、また救われることが出来た人だった。


生きとし生けるものは全て必ず亡びるが、出来うる範囲で精一杯生きた生命に後悔はない。

死ぬときに後悔すること25読了

健康医療編

健康を大切にしなかったこと

たばこを止めなかったこと

生前の意思を示さなかったこと

治療の意味を見失ってしまったこと

心理編

自分のやりたいことをやらなかったこと

夢をかなえられなかったこと

悪事に手を染めたこと

感情に振り回された一生を過ごしたこと

他人に優しくしなかったこと

自分がいちばんと信じて疑わなかったこと

社会生活編

遺産をどうするか決めなかったこと

自分の葬儀を考えなかったこと

故郷に帰らなかったこと

美味しいものをたべておかなかったこと

仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと

行きたい場所に旅行しなかったこと

人間編

会いたい人に会っておかなかったこと

記憶に残る恋愛をしなかったこと

結婚しなかったこと

子供を育てなかったこと

子供を結婚させなかったこと

宗教哲学編

自分の生きた証を残さなかったこと

生と死の問題を乗り越えられなかったこと

神仏の教えを知らなかったこと

最終編

愛するひとにありがとうと伝えられなかったこと


ちょっと前にベストセラーになった死ぬときに後悔すること25 読了




ほぼほぼ目次を見れば言っている内容は理解できる。

健康を害するとなにもできなくなる。ガンは早期発見がベスト
そのためには、年に一度きちんとした人間ドックにかかること
怪しいサプリメントは効果が信用出来ない。
寝たきり、喋れなくなる前に生前の意思を表明してくれる

心理的には、 人生はあっという間だった
そのために自分の気持ちに嘘をつかない。
命の時間は決して長くはない。
人の心を惹きつけてやまないのは、やりたい放題の人生を送ったほうが
自分の自由に生きた人のほうが尊敬はされないが、愛される

夢を叶え切れなかったことに対しても後悔する。歳をとるたびに可能性が
へっていく。そのなかで夢を持ち続けられなかったことに後悔する。
中途半端だというのが、一番後悔する。

感情に振り回されず、平静の心を保ち、立腹することはしてはいけない。
他人に優しくすることと、生の終わりを敗北ではなく、完結と捉えるならば
死は恐るべきものではなくなる。

社会的には、葬儀の方法、遺産の分配も考えておく必要がある。
そして、死の間際には、過去を振り返ることが多くなるので
故郷に戻れるうちに戻っておくことも必要となる。
仕事一筋ではなく、趣味をもっておくと、己の糧になってくる。 
旅行も行きたい場所に行っておかないと後悔することになる。
悩みがあるなら旅にいけ!

人間としては、会いたい人がいたらすぐに会いに行け
会いたい会いたいと思っているうちにすぐに数年が過ぎ去ってしまう
本当に記憶に残るような恋愛をしてください。
結婚することで、ひとつの形を残すことができ、後々の後悔をしないですむようになる。
独身者の場合、子供を育てなかったことに対してすごく後悔をするようになる。
自由と孤独はいつも隣り合わせで、どちらかを立てればどちらかが立たない状態になっている。
子供が結婚していないことに対しても後悔の念をもつひとが多いことには驚いた。

出来る限り人生の総括は早めにしておいたほうがいい。
自分の生きた証でなにを残したいのかをきちんと考えておくべきだ。
そして自分の生の意味、死の意味をきちんと考えておくほうが後悔しなくてすむ。

そして、愛する人にありがとうといえなかった後悔
愛しているという言葉は魔法の言葉 


生きとし生けるものは全て必ず亡びるが、出来うる範囲で精一杯生きた生命に後悔はない。



2013年6月11日火曜日

竹宮ゆゆこの新作 ゴールデンタイム


ゴールデンタイム 1 春にしてブラックアウト

http://golden-time.jp/
ゴールデンタイムアニメ化決定

ゴールデンタイム 春にしてブラックアウト読了

とらドラの作者竹宮ゆゆこの最新作

とらドラが、高校生の親子の間の自立を描いた小説だったが、このゴールデンタイムは一体なにを表現してくれるかな?

大学時代は、確かにゴールデンタイム
普通の人だったら、本当自由で何事にも楽しみながら過ごしていくんだろうな。
自分は、大学生活を最初に躓いて大失敗したから、憧れの意味もこめて読み進めようと思う。この異様に美人でありながら、人間がめちゃめちゃ不器用に出来ているという描写、美人を表現する洋服の格好の細かく精密なこと、女性作家らしさが満載。

主人公の万里が、なにか記憶喪失というものを抱えているところが、伏線になって行くんだろうな。まだ伏線を張ったり人物紹介巻なので、めちゃめちゃ面白いかまではいかないけど、

大学を舞台にした珍しいライトノベル

六巻までノンストップで読んでしまうだろうな!







ゴールデンタイムタイム2
答えはYES

柳澤からふられた香子に、万里が告白してふられていい友達でいましょう!と言われてしまい。。

本当にいい友達でというのを過剰にまで演じ切るところがマンガチックで素敵すぎる。

この人は、なんて頭で考えてばかりで不器用なんだろうと愛しくなってくるという万里の気持ちがよくわかってしまう。それも完璧な美人で隙などなさそうに見せている分余計に際立つ。

その香子が阿波踊りに挑戦して、あまりのぎこちなさに大恥かいてしまうところなんかが、自分のできない事を方向も定まらずやろうとするまさに青春そのもので、読んでいて清々しくなってくる。

飲み会で、自分を振った完璧の柳澤が、岡ちゃんにまったく相手にされていなくて撃沈するところ、そしてそれに狼狽してしまい逃げ出してしまう香子

なにかしらみんなが始めてのことを繰り返しやってきて、それでぶつかっていく物語なんだろうな。

テーマは青春の痛さと甘さなのかな。

柳澤も完璧じゃなく、むしろへたっていた方で、二次元くん、リンダ先輩、岡ちゃんなどの人物が出揃って人間関係もしっかりと把握完了

さあ、どうなっていくのだろう

読んでいてこんな青春送りたかったという思いにさせて欲しいなあと思い3巻を読む

箱根の坂を越えること 北条早雲

箱根の坂


司馬遼太郎読了

伊勢新九郎ことのちの北条早雲の事は、前半生はほぼほぼ想像で描き出したとあとがきで書いているが、その人物像が、自分の居場所として鞍作りに励む番匠として自らを規定し、それにはみ出さず、心にある愛情を押し殺して、それでもなお心の強さを持ち続ける、そんな魅力的な三十代の男性を描いている。
司馬遼太郎の書く主人公はいつもかっこいい。司馬史観と揶揄されながらも、このヒーローの魅力にやられてしまうのだ。
縁で駿河に下り、千萱の息子、竜王丸に政権を取らせる為に、駿河各地を歩き回り、人間的魅力や、知謀策略を用いたりするのだが、歳が40を越えているのに、11年も待つという事ができた強さを感じてしまう。
結果として駿河を竜王丸に取らせ、今川氏親に守護職を復権させようとするのだ。
その後、自身の勢力争いで伊豆に進出、伊豆を五年かけて平定して、
その後相模小田原城を攻略、大森氏を倒す。
そこから、三浦半島に位置する三浦道寸を倒すのに、10年近くかけている。
何にしても司馬遼太郎の描く伊勢新九郎は、年齢を重ねているのに、待つ事を知り、命尽きたらそれが天命だったと受け入れる思いを持っていたというのが、侠気のある人物として描かれている。
問題は、司馬遼太郎の小説としては、伊勢新九郎は伊勢家の傍流として素浪人から二国の戦国大名になったとされているが、いまは年齢は二十年くらい遅く生まれたのではないかという説が有力と聞いて驚いた。88まで生きたのではなく、60代なかばで死んだ説が有力候補なそうな。そして厄介者というよりむしろ伊勢家の中でもなかなかの役職を占めていて、駿河下りも、伊勢家、幕府の命令のために動いていたという説の方が有力なのだ。
決して素浪人から上り詰めたのではなく、幕府の高級官僚の一族の出身だったという説のほうが信ぴょう性は高い。
司馬遼太郎はものすごく落ち着いた人生を達観していた北条早雲を描いていて、小説としては楽しくてたまらないのだけど、歴史小説の限界は、定説はどんどんと変わっていく。でも物語は改訂して更新する事ができなくて、歴史的事実とかけ離れて行ってしまう。
歴史小説で勉強しようという無駄な考えさえ捨てれば、なんと魅力的な人間に書かれた英雄譚なんだろうと思う。
そっちの読み方の方が正常なんだろうなと自分は今回考えさせられた。でも面白い!

2013年6月3日月曜日

本当に人生観が変わる本 箱の法則

2日で人生が変わる「箱」の法則 読了

前作も読んだけれど、自分的には続編であるコチラのほうが気に入った。
サラディンがエルサレム奪還のとき、虐殺を行わず、相手が約束を反故にしても
かれはそれに対して憤りもせずに敵に対してさえ温情を見せた。
サラディンの成功の理由はこの本では「心が平和だったから」と言っている。

心の状態が敵対的か平和的であるかが最も重要と説く。
それを決めるのは心のあり方だという。
他人のことを自分と同じ人と見るか、それとも物と見るかを選びとっている。
物と見れば敵対的になり、人と見れば平和的になるだろう。

ここの文章だけで、自分は精神的に人生観がすごく変わった。
イライラするとき、自分に問いかけてみる。相手は同じ人間か、それとも物として見ていないか?それをするだけで心がものすごく平穏になる。
たった一行の他人を人と見るか、物と見るかだけでこんなにも心の感じ方が変わるとは思っても見なかった。
振る舞い(行動)が重要と説く本はたくさんあれど、行動ではなく、心のあり方が大事だと説いている本はあまり接したことがない。行動を変えるのは並大抵の努力ではできない。でも見方を変えるのは一瞬の心掛けだけでできる。その単純さが自分の性に合った本だった。

それと相手が間違っているかもしれない場合、それでもなお自分がもしかしたら間違っているのではないだろうかと内省することを求めている。どちらも自分たちの正義を掲げて生きているので、それに真っ向から対抗しても対立しかうまない。だからといって折れろと勧めているわけではないというのがこの本の面白いところでもあった。

前作の自己正当化というところにもここで話がつながってくる。
自分自身の心の正直な感情に従わなかった時起こることは、自己正当化。不安定な自我に耐えられず、自分自身を裏切ったことへ直視しないために自分は間違っていなかったと自分を正当化して考える。自分自身に背くことは闘争へ向かうということ。なぜなら、自分が自分に背いた時、他人の過ちが自分の中で急速に膨れ上がる。それを実際よりも悪いものにし始める。それが自己正当化が敵対を生み、心の平穏を失わせ、他人を物としてみるようになってしまう。

人からさげずまれるのは苦痛だが、人に対するさげずみの心のほうがはるかに自分自身を消耗させる。
自己正当化には4つの形がある。
優越の箱 他人を自分より劣ったものとして偏見を持ってみること
当然の箱 自分は被害者であり、権利があり恵まれないでいると考えること
体裁の箱 助けになることや正しいことでも好ましく思われる事を気にするため相手が好まないときそれをしないでおく事 寛大さのなかには、自己正当化によって生み出されているものもある。
劣等感の箱 障害、劣等部分が自分が周囲とうまくやれない言い訳に利用している。自分のこころに嘘をつくとき、ひねくれた時に自己正当化するために劣等部分を使う事

ただ、人間とは一生自分を裏切り、正当化しつづける生物でもある。一生箱という自己正当化をしようとし続ける。でも、そういう事を知っていれば、自分自身で気をつけて自己正当化を取り消すこともできる。自分自身の心が平和に成らなければ、他人に平和をもたらすことはできない。

人を無理やり変えることはできないが、変わろうという気にさせることはできる。

箱の外側にでるためには、 
普段自分が箱の外側にでて接しられる相手は誰かを考える
なにもかもが順調だったことを思い出させてくれる場所や行動を考えてみる
他人について自問することで、自己正当化と非難から解放される
重要なのは何をすべきかという気持ちだけではなく、それをしたいという願望
そうした願望は心のなかから生まれてくる。それに従って行動をすることによって
こころの平和を保つことができる。
外面的な闘争は避けられないにしても、心は平和な状態で闘うことができる。



2013年6月2日日曜日

橋本治の古事記 橋本治ファンには最高すぎる


古事記の上中下の上巻のみの現代語訳版

それも、橋本治が翻訳をしているということもあって、文章が最高に面白い。
いままで、日本の神話は断片的な知識しかなかったが、始めて神話を
きちんと最初から最後まで読みきった。
ここに日本人の精神性が詰まっているのかと思うと、もっと早くこの本に
出会っていたかった。
天地開闢から、高天の原、
イザナギとイザナミの日本列島の國造りの神話
火の神を産んだことでイザナミが死んだときの激昂

その後の黄泉の国での見てはいけないというものを見てしまったイザナギ
禊をしているなかで生まれた天照大御神、スサノオノミコト、月読命
スサノオノミコトと天照大御神のウケイ(賭け)
天の岩戸の話とここで使われた八咫の鏡 勾玉
スサノオノミコト高天の原追放と、地上での八岐の大蛇退治
草薙の剣 ここで三種の神器の由来がわかる。

オオクニヌシと因幡の白兎
オオクニヌシの黄泉の国でのスサノオノミコトの計略を尽く交わして、スセリ姫を得て帰ってくるところと、出雲大社の出来た由来
葦原の中つ国と呼ばれる地上の最初の支配者だったのにもかかわらず
不思議なオオクニヌシの国譲り神話
ニニギの天孫降臨
その孫である神武天皇の東征

こうみると、断片断片では、ぜったいに聞いたことがあるのに、一気にまとめて読んだことってほんとうになかったのがわかる。
いろんな現代語訳があるなか、文章的な面白さは、橋本治に叶う人はいないだろう。
こんなにも生き生きとした八百万の神が日本にはいたのかということ自体
けっこう新鮮だし、天照大御神の傲慢で不思議な決定とか、オオクニヌシの浮気症など
物語としても楽しい。これを児童文学として読めるレベルに落とし込んでいるのだから
素晴らしい。今年になって最高の本だと思う。
中下巻は、橋本治訳はないので、それ以外のひとで読んでみたい。




村上春樹 アフターダーク 読了


アフターダーク(村上春樹)読了

やっぱり小説は良い!別世界に連れて行ってくれる。

この本は、深夜の11時56分から朝の6時52分までの半日を舞台にした小説

単純明快に真面目で頭の良いが、美人の姉にコンプレックスを抱いている浅井マリ19歳の外国語大学(中国語)が、深夜の街の都会という異界との接触と、6時40分に太陽が出てからの明るい日常の世界へ帰還した、たった半日の冒険譚

そのなかで、姉を再発見していったりする。彼女の異界への導き手として高橋やカオルという保護者が付いてきてくれるという風に簡単に読んでしまった。

そうしないとまったく意味がわからない小説になってしまう。意味をどう取っていいのかわからないが、取り敢えずマリとエリの物語として読めば筋道はきちんと通る。


いつもどおり、あちらの世界とこちらの世界を行き来していくのだが、

あちら側が、ラブホテル 「アルファヴィル」という現実にある存在で

コチラ側が、デニーズやすかいらーく 自宅が 舞台

異世界というのが殆どでてこないのが村上春樹にしては珍しかった。

唯一あるとしたらお姉ちゃんが入り込んでしまった世界の切れ目として、テレビの中くらいか。

ラストはもどかしい終わり方をするが、希望の種だけは残していっている。

短編小説のようにすらすらっと読める久しぶりの村上春樹本でした。

気に入った言葉は、
高橋の言葉P19
浅井エリみたいなすごい美人とデートできたらいったいどんな気持ちがするんだろう?知的好奇心? けっこうココがツボに嵌った。

P138 裁判という制度そのものが僕の目にはひとつの特殊な異様ないきものとして映るようになった
裁判自体を 深い海の底に住む巨大なタコ と例えていた。この権力に対するイメージは村上春樹一貫のテーマな気がする。一人では対抗できない。どう逃げ切ろうとしても、切り落としても何度も追いかけてくるイメージはすごくわかりやすい。

P243 コオロギの言葉

あんたがお姉さんに対してほんとに親しいぴたっとした感じを持てた瞬間を思い出しなさい。
(中略)一生懸命思い出そうと努力していると、いろんな記憶がけっこうありありとよみがえってくるもんねん。

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