2013年5月5日日曜日

頭VS心=身体


普通がいいという病 自分を取り戻す10講 読了

面白かったので、読書メモの書きだしがすごく長くなってしまった。


人それぞれ他の人とは違う角をもっている。
その大切な中心である「角」をそれを憎んで
邪魔にして生きるようになってしまうと
生きることそれ自体が色あせ始め
無意味なものに感じてしまう。

角を人と違うものとして切り捨てるのではなく、
「自分で感じ、自分で考える」を通じて
いままで疑うことなく信じていた様々な常識や知識を一度丁寧に
洗い直してみる作業が必要になってくる

病・苦しみのもつメッセージ

昔は病気と健康というものが、決して別世界のものではなく
連続して繋がっていた
自分はどうせ病気なのだからと差別的な見方をしてしまわないで、

異常・正常というレッテル貼りを自分自身に安易に行ないこと
そういうことがとても大切だと思う。

人間は何らかのレッテルを自分で自分に貼ってしまいがちだ。
貼ったことにより自分自身を規定し自分自身を閉じ込めてしまう。

葛藤というのは、意識の中に○と相容れない△という気持ちがある

葛藤している状態は問題ない、それを△を抑圧してしまうと
見た目は葛藤が消えて健全だと思うが、そのうち抑圧した
△が反発してくる。
こころと身体は一心同体なので、身体もエネルギーを出してくれないので
疲れやすさ、倦怠感、などなどのうつ状態になる。

なので、治療としては、抑圧した△を葛藤レベルまで持ち上げて
悩むべき問題はあるべき悩みを悩むようにする。

病的な安定から健康な不安定へ持っていく。

安心して悩めるという状態が人間の健康な状態だ。

本当に人が救われるというのことは、其の人の中に潜在している力や
眠っている知恵が目覚め、動き出して成されること。

悩み・苦しみのなかには大事なメッセージが必ず入っている。
他人がただ表面的な解決法のみを提供していると
同じメッセージを届けるために何度も同じような災難が本人に降り掛かって
くることになってしまう。

もっとそのひとの根本にある価値観や生き方自体に関わるメッセージだ。

うつ病を通じて、本人の基本的な価値観のところに革命的といえるほどの
大きな変化がおこり、生き方が見直され人生も変わっていったということだ。
うつ病の根本をなしている「病前性格」の部分に変化が起こって
完全に治癒したものだと考えられる。

そう考えると、病気や苦しみは天からのギフトとも呼べるもの。

病気のもつメッセージは常識的な価値観より深い層で起こる。
治療者自身もその深さでいきていかなければならない。

私達が認識を獲得するのは苦しみに寄ってであって、読書ではない。
読書には一種の距離がある。生こそほんとうの経験。
内的経験でないものは、すべて例外なく薄っぺらだ。

言葉の手垢を落とす

クライアントにどうなりたいですかというとき、普通になりたいという

しかし、本来すべてのものがオリジナルであり普通というものは存在しない

言葉には流通していくうちに手垢にまみれ錆びてくる。それは世俗的な価値観だ。
言葉にまとわりついている価値観や世界観のようなものが本人を縛っている。

言葉には公的な側面と私的な側面がある。
近年、それができない人が増えてきている印象がある。
プライベートな言葉をそのままパブリックな場所に持ち込んできたり
パブリックな言葉を自分のプライベートなフィルターを通して傷ついた
ひどいことを言われたと反応したりする人たちが実に多い。

自他の区別
自分と他者が違う内界をもち、違う価値観で言葉ひとつにも自分とは違う
意味をもせているかもしれないかもしれないということが想像できない。

境界なしに自他がつながっているような人間関係は「自他の区別」の
できていない人が強く憧れるものだ。
しかしそのような関係は現実には存在しない。

その「ないものねだり」を他者に求めることになってしまっている根本原因は
「自分自身を愛していないこと」にある。つまり、自分の内界が寒く寂しい
ものになっているために、他者にそのその代わりの温かさを求めざるえなくなっている。

普段はとても不調を訴えているけれども、欧米に旅行すると突然水を得た魚のように
元気になる人もいる。しかし帰国すると元に戻ってしまう。

なぜなのか?
西洋の場合、一人称の自分が三人称のひとに話している。
なぜ三人称なのかというと、相手とこちらとの関係によって変化しないという意味合いを
こめている。
日本の場合、0人称のひとが二人称の人に話しかけている。
自分の意見を言う時に相手が自分より目上であるのかなど自分と相手の関係によって
内容が変わる。
0人称というのは自分がないという皮肉

普段我々が現実と読んでいるものよりも心のなかの心的現実性のほうが大切
ひとはこのように「現実」的なファンタジーのなかでいきている。

心の問題のなかでは、歴史的事実よりも心的現実の方が大切になっている。

人間の苦しみの起源 失楽園

頭とは理性の場所 心は感情や欲求の場所 身体と一心同体と繋がっている感覚

頭VS心=身体 という内部対立を持っている

頭と心は混合されやすい

頭 理性の場所 使う言葉は「すべき」「してはいけない」must should
過去を分析し、未来やここ以外の場所をシュミレートするのが得意
過去の後悔、未来の不安はここで生み出される

「今・ここ」を正しく捉えられない。

頭はとにかくなんでもコントロールしたがるという傾向がある
欲望とは「欲求」とはちがって心からではなくこの頭のコントロール志向から生じる

心 「したい」「したくない」「好き」「嫌い」 want to  like
時間の認識としては、頭と違って「今・ここ」に焦点をあてシャープに反応する

オリジナルな感情 喜怒哀楽は心から 期待を掛けてかなわなかった時におこる
ような感情は頭から生まれる。なぜなら未来をシュミレートしてこうあってほしいと
コントロール志向を向ける頭由来のものだから。

身体 身体と心は直結して密接に連動 欲求や感覚はこの両者で生まれる

頭とは二元論が基礎になっている理性の場所だが、この理性が人間の文明を
作ってきたが、この働きが同時に人間の不幸を生みだす源になっている。


現代人は、頭が独裁者として振る舞う専制国家
心がストライキを起こせばうつになり、暴動すれば、感情の爆発になる

本来人間の中心は、「心」=「身体」のほうであり、あとから移民として
頭のほうが入ってきたことをわきまえる必要がある。

心=身体には桁外れに凄い能力がある。食べたいもの、必要なもの、そういったもの
をなにも考えずに身体が教えてくれる。

野口整体の野口氏は健康になればどういうことをやっても快くなる。
そして、その快いという方向にさかわらないようにしていれば自然に丈夫になる
それを意識で良薬は口に苦しというようなことを考えてしまう、それは間違っている。


人間の身体も心も本来は快 不快 というシグナルで持って適切な判断を自分に
教えてくれるもの。それをいつからかむしろ頭で逆の司令を出し不自然な状態に
自分自身を追いやってしまっている。

我を淡々と行う肉体。つまり心=肉体の持っている大いなる理性を信じて
委ねることが現代人にとってもっとも大事なことではないだろうか

そしてその身体は自然とつながり、自分の頭を超越した「内なる自然」になっている。
私の身体は私のものであって、わたしのものではない。

コントロールという病
ひとはとにかくコントロールしようとするが、それを一度委ねてしまってもいい。
本当の変化というのは中から自発的に起こってくるもの。

脅迫神経症
頭によって強力にコントロールされている心がそれに対する反発として
でたらめな感じを乱発し、頭をてんてこ舞いにさせる状況
なぜそもそも頭は心を強力にコントロールしたのか
本人が反道徳的と考えているある感情を心から噴出してくるのを抑えるため

摂食障害
身体にたいする頭のコントロールののトラブル
過食や拒食
対応として
どうせたべるなら貴方がその時本当に食べたいものを
美味しいと感じながら食べるように
過食も拒食も量の病理なので質の機能が働いていない。
摂食障害になりやすいのは、自分はこうあるべきだというあるべき自己にむかって
強力に自己コントロールを行うタイプの人だ。褒められることはあっても
問題視されることのない強い意志、それこそが問題なのだ。

難治性うつ

頭のコントロールが強い時、心の不満は完全に封じ込められてしまっている。
コントロールをおこなう中心は頭のなかのとりわけ道徳的観念。
この道徳的観念は肥大化していき、「謙虚さ」「自己卑下」の名目で
厳しい自己批判を行う。そうして、高い基準をクリアした場合のみ自分を認め
それ以外の自分を認めないという強権体制が続いていく。
自分を愛するということは自分を甘やかす事と混同され、厳しく禁じられ遠ざけらる。
自分を褒めることも禁じて、生きるとは終わりなき努力と忍耐の修行のようになる。
それでも弱音を吐くというのは「逃げ」として禁じられているので自分の奥底にある
疲労感と自己不全感が蓄積していく。
あるときちょっとした失敗や挫折が引き金になって突然自分ではコントロール効かない
死にたい願望がでてくる。うつとして、休養をとり、薬を飲むが、単なる怠けなのでは
ないだろうかと自己批判は止まらない。焦ってすぐに社会復帰しなければと自分に鞭打って
動き出すが、すぐにブレーカーが落ちたようにまたうごけなくなりまたそういう自分に
厳しく批判し、嫌悪する。
じっくり考え込んでいるのが行けないんだから少し身体を動かしてみたらといわれ
るが、心=身体は動かない。死にたい気持ちも湧いてきても死にたいと考える自分は
ドウしようもない人間だ もっと回りのひとの気持ちを考えなければと すぐさま
頭が反省し、死にたいと思う心をさらにコントロールしていく。日々の自己否定や
死にたい気持ちはより深刻になり、周囲には頭がそれをみせないようにコントロールし
いつしか心が暴発し、本当に自殺してしまう。周囲はどうして死んだのかわからない

ほんとうに力があるのは、生きている人間の生きた言葉だけ

自己形成のイメージ


あるべき自分というものにとらわれて、足りないところを身に付ける。いつも
自己の理想的自己設計を目標にそこにすこしでも近づけるように努力していく。

もう一つの考えかたは彫刻的な自己形成の作り方 こちらのほうが良い

ある核があってそこにむかって自己を削りだしていき、余分なものをそぎ落とし
最終的には光り輝く核を磨き出す
本当のじぶんというものをどこからからもってきて身に付けるのではなく、
予め内在しているものとして考える。

精神の成熟過程 駱駝 獅子 小児

感情には頭由来の浅い感情 心由来の深い感情の二種類がある

意識(頭)がつねに蓋をしていて、無意識のなかに

怒 哀 喜 楽 の順番で入っている ネガティブな感情が出てこない限り
ポジティブな感情はでてこれない。
深い感情に於いて、ネガティブなしのポジティブというものが有り得ない。

ネガティブな感情もポジティブな感情も差別せずに怒りも悲しみも喜びも楽しみも
同じくらい大切なものである。

感情にも鮮度があり、一番最初に出てくる怒ノ部分は歴史があってOLDな怒りを
ずっと溜まっている。いろんなことがあって、それを感情のなかに貯めこんでいくもの
だからものすごく古い怒りが溜まっていく。

精神療法でこの蓋を開き始めると必ず最初にOLDな怒りがでてくる。
とても爽やかなものではないが、この古い怒りが出しきってしまうまで
サポートしていく。

古い怒りの感情を吐き出すのは、日記という手段が一番いい。文字にして出すことで
芋づる式に悲しみが現れ、整理され、浄化されていく。
のちに自分との創造的な対話をも可能にしてくれる

浅い感情は頭由来のもの 過去だったり、シュミレートした未来だったりしたものから
生まれてくる。頭の本来の言葉は「すべき」「してはいけない」だが、心
に偽装して「ニセの心」を作ってしまう。「会社に行きたいのに行けない」
心が本当に行きたかったら身体もいけるはず。こういう場合、頭が偽装して
ニセの心を作っている。

なんにせよ、心由来の深い感情は、身体と密着しており、浅い感情は頭で作られるもの
なので、浅い感情自体に振り回されないようにする必要がある。

深い感情を信じるということは、「心」を信じるということであり、人間を突き動かしている
深い流れ「運命」「自然」を信じることでもある。
私達人間のちっぽけな理性では計り知れない深い流れに身を委ねて生きていくことが
運命に身を開いて生きることです。

ニーチェは、人間のあるべき姿を超人とした
そして成熟していく姿を没落と言っている

最初人間は駱駝として描かれる。従順さ、忍耐、努力、勤勉
龍は「汝なすべし」という名前で駱駝を支配している。
そして駱駝は獅子に変更し 龍を倒してしまう
獅子の言葉はわれは欲す。ここで一人称のわれが出てくる。獅子は怒りの象徴
我を獲得した獅子は小児に変わる。ここでは「然り」「その通り」
「全てはあるがままに」
小児は創造的な遊びに没頭する。
セラピストは、クライアントがどの時点にいるのか、怒りを爆発している獅子をサポートできるか、
世間一般が駱駝であることを良しとしている社会でどう手助けしてあげるかが大事になる。

深い感情すべてはそれ自体がクリエイティブであり、生きることに新たな指針を生み出してくれる。
深い感情すべてが愛の現れだとしたら、浅い感情は欲望の現れである。

愛と欲望


孤立と孤独の違い
孤立とはある集団内で一人ぼっちになってしまったことをいうのに対して
孤独とはそれぞれ人間全てが個であるという避けようのない状況を示している。

孤独に対して向き合わない孤独の否認者

また、ちょっと孤独を見ただけでなにか恐ろしい闇と思い込んで厭世気分に陥るタイプ
このタイプは孤独の否認者を嘲笑し自分たちが最も孤独を知ってると自負している。
ニーチェはこのタイプを「死の説教者」と呼んでいる

孤独について本物の認識があるタイプ
そこには暗闇ではなく別の風景が広がっている
「独りでいるのは賑やかだ」
とてもあたたかい楽しい雰囲気に満ちている。 
独りでいるとき寂しい人間が二人いたらもっと寂しくなる。

人間は自分一人を支えるくらいの力しか持たされていないから
他人の分までもつことはできない。
たまたま同じ方向にむかって並んで歩いているに過ぎないとわきまえる必要がある。

まだどこにいるかもわからないけれども将来必ず出会うはずの恋人

その恋人にも自分とおなじような賑やかな孤独を持っていてくれと呼びかけている

万有引力とは引き合う孤独の力である。

孤独は自然に引き合う万有引力をもち、万有引力をもつからこそ孤独でいられるのだ。

孤独のあるところには、必ず愛がある。愛はそれぞれが孤独であることを前提としている
孤独の世界は愛によって賑やかさが与えられている。
だから孤独とは決して冷たい死の闇ではない。孤独に足を置いた者の最低限の想像力に
よって他者も自分と同じ孤独という状況に生きていることに気がつくこと
それが愛の出発点だ

エーリッヒ・フロム
幼児の愛は、私は愛されているゆえに愛する 成熟した愛は私は愛するゆえに愛される
未成熟の愛は私は貴方を必要とするゆえに愛する
成就した愛は私は貴方を愛しているので貴方を必要とするのだ


愛 相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである
欲望 相手がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである。

愛の姿 不動明王 愛染明王などのように邪なるものへのたいする怒りの姿をしている
怒りも愛の重要な側面である。

内なる太陽 自家発電する愛

自己愛の障害
自分自身への愛がうまくいっていないということは、自分自身に対して「欲望」
をむけた状態とも言える。「でなければならない」ということを自分に押し付け
それに応じきれない自分に制裁を加える。力によるコントロールが行われる。

自己否定 それは親からの否定的なものによって、自分が生まれたこと自体が
わるいことなのだと考える。(そのときの親のきまぐれによって)
なので、自己否定の根拠を徹底的にさぐっても否定の出発点のところには
自分を否定すべき何の理由もみつからないものだ。
子供にとって、親は神に等しい存在だが、実際は人間だ。つまりはだれしも
この自己否定の認識をもっているのだが、実態は存在しないということだ。

それでは自分自身を愛せない状況からどうやって脱却するのか

自分を愛するということは、後天的に獲得されるものではなく
生まれた時には問題なくできているというものなのだ。

他人に愛を求めるのではなく、愛の自給自足を体現している存在に出会うこと


生きているもの 死んでいるもの

死んでいるものは、なにか機械的な反復、生の感じがない
生きているものは。マニュアルではなく即興性があり、鮮度がある。

すべてのひとが経験をしていく。そのなかで体験と経験をわけるとなると

経験 あくまで未来に向かって開かれている。たえず新しいものを受け入れる準備がある

体験 経験のなかの一部が過去的なものになってしまって、今に働きかけてくる。

生きているものを経験とよび、死んだものを体験と呼ぶ

経験したとは、質的に深い変化がその人に起こることで、どんな小さなことでも
経験を深めることでいろんなことの普遍性につながっていく。

体験の場合、苦労の勲章になるばかりで、普遍性をもてないのでピント外れの親切や
ありがた迷惑を引き起こす

経験を深めていくと最終的には個々の要素は消えて普遍性を獲得することになる。
なので、どんな学習してもそのエッセンスまで到達するとしないとでは大きく違ってくる。
本当にわかるということはそういうことで、物事をよく咀嚼しているからわかりやすい言葉
を使っても自在に話したり書いたりすることが出来る。

マイノリティを生きる

「いうまでもなく、思考に関しては多数派はいつも間違っています」

必ずどんなひとにもその人なりの敏感なアンテナというものが何処かにあるが
その敏感さゆえに弱ったりもろくなったりしている。使わないから磨きが掛からない。
しかしアンテナ自体がなくなることはないから中途半端で敏感で細い状態になり
その人自体を弱くしてしまう。

小径をいく

細い小径 いろいろと障害物はあったり、どっちいこうかあっちいこうかと自分で
一つ一つ判断して道無き道をいかなくてはならない。小径に入ってしまった場合、
大通りには戻ることが解決にはならない、自由というのは何の指針もなければ、その
小径が正しいのかと問われても答えすらないので、自分の判断以外にあてになるもの
がない。マニュアルもなければ他人との比較もできないし、前例もない、それが自由の
大変さです。そして多くのひとはこのリスクが怖くてしょうがない。それにくらべて
大通りは不自由だけれども安全。多くの人々が大通りにつよく惹きつけられている理由だ。

一万年も生き長らえるであろう者のように振る舞うな。死の運命はすでに迫っている

死は我々と不可分の関係にある。それは外にあるのではない。それは我々自身なのである。
生きることは死ぬことである。まさしく死が外部的なものではなく、生の中に包含して
いるがゆえにあらゆる生存は同時に死ぬことであり、それでいて否定的ななにかでは
ないのだ。死は人間の生の欠陥ではない。それどころかそれを完全にするものである。

あるところにいくと死と生はひとつになる。

あした死ぬとしてあなたはなにをやり残していますか?今日一日をどうすごしたいと
思いますか?と問いかけてみる。

毎晩眠るということは、毎日死ぬことである
不眠とは死ぬに死ねない状況である。今日という一日を生きたという手応えがない
という未練がある。
なので、ほんの少しでもよいから自分らしい時間を過ごすようにと勧めている


自分を求め、自分を手放す
螺旋の旅路


神経症性のことをそれは真に自分が感じたことを押し殺し、「他人にこう思われたくない」
「他人にこう見られたい」のほうを優先してしまうことをいう。
裸の王様の物語には、自分というものがあったのは、「裸だ」という子供のみだった。

自信について

自分を信じると書いて自信  
ひとつは信じるとはどういうことなのか 
信じる対象として自分とは何かということ

まず、信じるということは本来、なんの保証もなしに根拠無く行われるもの。
なんらかの根拠をもとめるのならば、それは他信とよぶべきものだ
信じるというのは愛のひとつの現れであること 
愛も信じることも根拠無く見返りなしに行われる心の動き。
逆に根拠を求めるのは頭由来の欲望。

自分とは何か

信じる、自信とかくが、自からみて自然と考えてみてどうだろうか。
自分というと有限な一個人のイメージがあるが、そういう限界がある事自体
信じること自体無理があるのではないだろうか。
底が抜けて自然と繋がっている自分ならば信じることもすんなりできるのではないだろうか。

たいていのひとは主観を押し殺して客観的になろうとする。これがおおきな間違いである。
主観をなくして客観であろうとするやり方はけっして成功しない。

主観は心に由来し、客観は頭に由来する。
ですから、主観は十分信頼に足る

逆に主観に徹して主観の純度が高ければ高いほど一人よがりにならずに
信頼性に高い認識になる。
主観の純度を低下させる不純物とはほかでもない客観である。
そもそも客観とは様々な主観の最大公約数にすぎない。

人間の変化成熟のダイナミクス


1.生まれたて 本当の自分だが純粋で弱い
2徐々に偽りの自分を身に着けて行く、本当の自分にたいする反発する反抗期
3反発の挫折と社会への屈服 一人前の社会人 他者本位
4本当の自分 反逆をはじめようと疼き始める 他者本位の行き詰まり
5本当の自分による革命的動乱 溜め込んだ怒りの噴出 一人称の誕生 自己本位
6自分という一人称が消え大いなる存在にぬだね、自然や偶然に身を開いている

なぜいきるのか?

そもそも生きる意味が必要なのか?それは頭が創りだした理性中心の発想
もちろんいきている途中に、なぜ生きるか?をかんがえることは大事。
だんだんとそれが消えていって、大きな流れに動かし生かされていることに気づく。

「私は生きるがゆえに生きる」

命そのものには本来、意味や目的はないのだ。

なぜ?という問い自体が頭=理性からでてきた煩悩のひとつだということだ。



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