2013年5月16日木曜日

うつになることは生まれ直しを迫られていること


クスリに頼らなくても「うつ」は治る

いろんな欝に関する本を読みあさっているけれど、どの本でもいうのは、
考えかた、この病気というのは生き方を変えることを
自分自身から迫られているということだ。


今現在ほとんどのうつに対して薬物療法が試みられている
しかし何度社会復帰を試みても再発のため療養が長期化して
諦めの心境になっている人たちがいる。
薬物療法はあくまで対症療法であり、病根にはアプローチしないからだ。

そもそもうつがその人に生じたのはなぜだったかを探索し
自然治癒力を妨げているものがなんだったかを明らかにして行くのが、
精神療法と呼ばれる

そもそもうつとはどこか外から降りかかってきたものではなく、内面で生じた現象。
セロトニンのアンバランスという説明で済ますのではなく、
なぜ発症以前にはなかったアンバランスさが
その人に生じたのかを考えなくてはならない。


この泉谷閑示の考えかたでは、身体、心、頭、と分けて見る。

動物は心と頭で生きている
文字通りの一心同体で心と身体がつながっている

だから決して心と身体は対立をしたりしない。

ただ、人間は頭を発達させてきた。過去の分析や未来予想をすることで、
文明を作ってきた。
が、弱点があり、いまここ現在を把握することが不得手である

頭を表す言葉はmust shouldすべきだ、してはならない、に違いない
 主に論理的思考を司る

心とは、感情、欲求、感覚、直感を生み出し、いまここ、現在を見ることができる。
Like want to 、〜したい、したくない、好き、嫌い、
頭のように論理性がなく、結論から出てくる。


頭が強くなりすぎると、心をコントロールしようとして
頭対心と身体をいう図式を生み出してくる。
うつとは、こころと頭の対立によって生じてきている。

頭がコントロールして心を支配しようとしたとき
発生するストライキしてうつになる。


回復には、頭主体から心と身体の復権が必要になる。

あまりに頭の精神力が強い人が鬱になりやすい。
精神力が弱ければうつには逆になりにくいとも言える。

頭のコントロールに対応しようとしても聞き入れない場合、
心は身体にSOSサインをだす。
それが心身症と呼ばれるものである。

身体の不調をただ困ったことと受け取るのではなく、これは何を言っているのか?
という問いをもつこと、それを手がかりに自分の心に耳を傾けて見ること、
少しずつ頭と心の間の蓋が開き、調和の取れた状態になって行く。

自己イメージがあるべき自己イメージ一色になってしまい、
実際のある自分が見えなくなってしまっている。

〜すべき〜してはならないという頭の命令に常に従ってきた人にとっては、
じぶんの心の〜したい、〜したくないという声が聞き取れない。
まずはそれを聞き取れるようになると、遊ぶことができる。
遊べることは改善の一里塚とも言える。

鬱になりやすい病前性格

作業遂行上の秩序を重んじる、道徳、人間関係、責任など
社会的な秩序を重んじる傾向がある。

また道徳心の強さから、心から湧き上がってくる怒りや恨みも良心的であるべきだと
いう頭から却下されて、行き場のなくなった感情が鬱状態を招く

新しいタイプの遊びにいけても会社にはいけない性格の場合

対人関係への過敏さ、過度に他人にどう思われるかを気にする神経症、
不当に自己評価が低く自分を無条件には愛せない自己愛の問題を抱えている。
傷つきやすい繊細さ、他者からの評価を拠り所にする傾向が強く、
ときにそれが感性豊かな仕事を産んだり、人並外れた頑張りをすることもあるが、
しかしちょっとした失敗で挫折感を味わい、
人間関係による動揺が大きい敏感な性格傾向とも言える。

性格はその人の突出した資質であり、良い形で出れば長所、悪い形だと短所になる。
精神療法では、資質は変えられないが、良い方向にでるように
治療アプローチのガイドやサポートをしていく。

うつの経過中はイライラしやすい状態になる。怒りは心に由来するものであり、
頭と心の蓋が外れるとき、どうしても最初に出てくるものになる。
ネガティブな感情から先にでてくる。怒りというのも自然にでてくるもので
それを押さえつけることは問題があるのではないか。
怒りをだからといって周囲に撒き散らすことは社会性の問題が発生する。
自分でやる方法としては、日記を書くこと、
そこに心の吐き出しノートをつけること。
書くことは論理的作業なので、心で感じている怒りを言葉に落とし込むのは結構難儀なこと。
しかし根気良くやって行くことで、頭と心の協働作業が生まれる。

不眠について
眠るを死ぬことと捉えれば、今日一日をよく生きていなければ良く死ねない。
死ぬに死ねない状態になる。つまりは不眠になる。

なぜうつになると死にたいと思うのか?

死にたいという患者の心は積極的に死を望んでいるよりも、
終わりなく続く苦しみからとにかく解放されたいと思っている。
死にたいと思っているくらい辛いということに対しての
SOSサインでもある。患者自体も死にたいと言うこと自体に罪悪感を持っている。
それでもひょっとするとこれを話すことによってなんらかの救いが
得られるかもしれないと期待してしまう。

自己否定型うつ病の場合、発症以前から心に自己否定を宿しているので、
死にたいという気持ちは強弱はありつつも長期間もっている。
その場合は薬物療法よりも生育史を丁寧にたどって自己否定を明らかにしつつも
そうなる以前にあったはずの自然な自己愛を蘇生させる作業が必要になる。
もともと強い感受性と内省力をもっているので、しかるべきサポートを得られたら
病的な方向に発揮されてしまっている生来の資質を
美点として開花させることもできる。

努力に価値をおく視点

成功したひとは努力をしていると考える。しかしそれは努力ではなく、
本人はただただ熱中していたのを努力と見誤ってしまっているのではないだろうか、
人間は生まれ持った資質に叶うことであればそれを面白いと感じ、
資質に乏しいことには苦痛を感じる。努力信仰は、資質の乏しい方向に
無理に進むことを奨励してしまいかねない。
人間本来が備えている快不快のセンサーはその人の生き方についても
その人の資質にあった方向に導いてくれる。

うつは心の風邪?

うつというのは、心の風邪というが、長期間かかるため、
むしろ疲労骨折に近いとも言える。
鬱は完治というのはなく、病気の勢いが弱まった寛解という言葉を使う。
再発の可能性はいつでも残っている。

病というのは、何らかのメッセージを自分自身に
伝えるべく内側から湧き上がってくる。
病はその中核的な症状によって、自分自身をより望ましい状態に導こうとしていると
という考え方を取り入れてみる。

うつは元に戻るという考えると再発の可能性もある。
生き方や考え方が代わる生まれ直しという深い次元での治癒が必要になってくる。

うつの本当の病根は何なのか、そこを見極める作業は本人に任されてしまっていた。
それを精神療法を用いてきちんと治癒を目指す。

薬に頼っていると後ろめたさが出てくる。そのときは薬に頼っているのでなく、
クスリを活用していると捉え直す。
きちんとクスリを使用する事で状況が改善され、
あるところから必要がなくなってくる。
医師と違った中途半端な使用方法をしていると帰って長引かせてしまう。

うつでは大抵の場合、物事に対して拒否反応を示す部分というのは
だいぶ広がってしまっている。
そのマイナスイメージを絞り込んでいく作業が必要になる。
そうすると鬱を生み出した核となっているオリジナルのテーマが抽出されてくる。
そのテーマによってどういう社会復帰をするかを決めて行く。

適応障害について

適応障害の解決のためには、まず環境からストレス因子の除去が優先される。
だが、世間のイメージはどうしても本人がその環境に適応できるようになることが
治癒だと勘違いしてしまっている。

現実との関係を尺度にして人を判定する事は適応イコール正常と考える事になる。
その現実自体が、満員電車にゆられ、長時間労働をして、
理不尽な命令に耐えることだったとしたら?それは適応しているが、
人間性としてみて適応していると言えるのだろうか?


心理学で葛藤や抑圧とあるが、
頭由来の論理と心由来の感情が対立している、これが葛藤

抑圧は頭が心との間の蓋を閉めてしまい、頭の中は何の問題ないが、
心の奥底に問題を抱えたままにしている。

葛藤は人間的な意味では健康とも言える。
抑圧が進みすぎると、心の声の蓋を閉じてしまうがある程度限度を越えると
それは心と体がストライキを起こしてうつという身体状況を生み出してしまう。

鬱状態に陥ると、あまり意識しなくて済んだ
生きる意味を問わざる得なくなってくる。

人間の基本的価値観はどんな価値観が支配的な時代に人格形成期を迎えたか
によって少なからず方向付けられてしまう。
一度できた基本的価値観は時代が移り変わっても深いところではなかなか
簡単に変化しにくいものである。


しっかりうつをやるという発想

うつになると昼夜逆転になる。
治療を始めた当初は規則正しい生活をと言っていたが、
起こってくる症状に何らかの意味があるのではないかと思うようになってきた。
病気や症状にはなにか大切な働きをしてくれるのではないかと
しばし立ち止まって視点を変えてみる事が欠かせない。

何をやっても長続きしない。とくに自己愛がうまくいっていない人に多い。
かりそめのいい子でありたいという思いである時期は長続きしていた。
そのかりそめのモチベーションが自分を支配してしまい、
真のモチベーションがつかめなくなってしまう。

ニーチェのツァラトゥストラのラクダと獅子と小児のように、
ラクダとしての義務が果たせなくなった
疲弊した状態になり、義務の遂行が次第にうまくいかなくなり、
物事が長続きしない時期になる。
やがて、意欲減退、集中困難、鬱状態になる。この行き詰まりの極地において
ラクダは獅子に変化する。ただ獅子は強奪する猛獣なので、
怒り、苛立ち、攻撃性を帯びている。それまで自分を支配していた
龍を連想させるような対象に対しては敏感に怒りの矛先を向ける。
この状態を通り過ぎると小児、物事をあるがままに捉える事ができる
成熟した人間になる事ができる。危険だった獅子の獰猛さも
己の主体性が取り戻された事で自然に消えて行く。

復職の時期については、医師側の見たてと患者の思いが食い違いやすい。
治療の中でも難しいポイント。
復職したいというのは本当に心の声なのかを考える。
それが復職すべきという頭が心を偽装した声かもしれない。
その場合は、復職したいといっても身体がついてきてくれない。
心から復職したいと言える状態になるというのはどんなものか?

頭からではなく、心と体の真の休息がとれるようになると休む日々、
好きに遊ぶ時期が物足りなくなる、退屈になる。
社会と関わってその中で自分を生かしたいという欲求が強くなってくる。
真の心から発してくる決定は精気に満ちた状態とも言える。
逆をいえば、復帰と休職を繰り返したり、長い期間状態が改善出来ないケースの
ほとんどの場合真の休息に至る前に復帰をしたか、
社会化した頭が心に対して真の休息を許していない状態に
あるのではないだろうかとかんがえられる。

しっかりうつをやってみるという逆転の発想

病と闘うと考えてきたひとはこころと頭が対立したまま療養したつもりで、
むしろ皮肉にもうつを促進的な内部環境を作ってきていた。
まず、病に従ってみる、鬱に従うとは何もしたくない、
抑うつ気分や意欲減退に身を任せてみる
現代人の鬱は大まかにいえば頭によるオーバーコントロールにたいする
心と体の反逆というもの
次に動ける状態になってから、なにをしたいのかわからなくなってきた、
何もしたくないという気持ちになってくる。
そこで、頭は心と体に何が本当はしたいの?と問いかけるが何も答えてくれない。
何故なら長い間声をあげてこなかった心と体はいわば退化しており、
再び動き出すには幼児の目覚めに相当するプロセスを経る必要がある。
なんにでもイヤイヤという幼児性を経て、
徐々に一貫性をもった〜したくないが生まれてきて、
やがて〜したいという高度な自己主張が表明されてくる。

〜したくないの対象が絞り込まれてくると、その人の譲れないものが
ネガのように反転した形で見えてくる。
決して妥協できない中心的なこだわりが幹のようにあり、
多少の妥協は厭わない周辺的なこだわりが見えてくる。

絞り込まれたしたくないことは、その人の中心的なこだわりに反するもの。
したくないの声を手がかりに小さな声のしたいに耳を傾ける。

夏目漱石がいう他人本位こそが、
何もしたくないという空虚さ、不安感を生んでいて、
外から無批判で受け入れた知識や価値観を用いて生きるのではなく、
丁寧に咀嚼した我が血肉とよべるものを養成し、それに基づいて生きることにした
自己本位に目覚めることになった。
自己本位として漱石が言いたかった主体性の回復の大切さは時代が変わっても
大事なものである。

いまの私たちは未来に備えることばかりをしていて、
いまを生きることをしてきていない。
心と体はいまを重視するので、あまりに将来に偏った時、
内なる自然は警鐘を鳴らし始める。
内なる自然を信じて、生きていく。
身体にいい食べ物というのは頭で考えることもなく、
身体が食べたいという欲求で教えてくれる。
その日その時の体調によって必要なものを間違いなく教えてくれる。
大切なことは、その時の自分の身体がなにを欲しているのかというのを
歪みなく聞き取れるように心がけること。
身体の声が聞けるということは頭と心の蓋が開いている状態に相当する。

うつのみならず不健康な状態とは頭が独裁的に肥大化して、
心と体を無視した時に引き起こされる。

人間には何もしないという空白の時間があってこそ、内省や創造といった
内的作業が可能になり、ぼんやりと思いを張り巡らせて見たり、
自分自身と対話を行ったりする。人間はなにもしないということに耐えられるほどの
忍耐力は持ち合わせていない。療養が長引くのは自己コントロールという
頭の要素が解除できず、充電しながら放電している状況に陥っていると言える。

うつがなおるとは

病気以前の状態にもどるのではなく、
生まれ直しという深い次元での変化が真の治癒と言える。

自力とは自分の力を頼りにしていることで、
他力とは仏の力によって導かれている開かれた状態のこと
自力とは頭の意志や知力を頼りにし、
他力とは心と体に委ねると言った状態

鈴木大拙が自力を尽くしたところで他力が働いてくると述べた

鬱時点では患者はまだ自力を捨てず自己コントロールの主導権を握ったまま、
意地を張り続ける。この時期が治療の最も根気のいる時期になる。
いかに自力の根を切り取れるかが今後の経過を左右する。
動けない、なにもしたいと思えない、起きられない、この時点は頭が動くべきだ、
なにかしたいと思うべきだ、起きるべきであるとおもっている。
それが、動かない、何もしたくない、起きたくないと変化してきたら、
療養が良質なものになってきている。何故なら心から発せられている言葉だからだ。

それがこんな風に何もしないで過ごすのは快適だ、ずっと休んでいたいなあと
思えるようになってきて休みを満喫できるようになったら、
自力を捨て他力に身を委ねているといえる。

このプロセスを経るということは大自然の摂理で動いている心と体に対して
頭が畏敬の念を抱くようになり、大いなる流れに身を委ねる
生き方に目覚めることになる。
適応イコール正常と信じていた思い込みが脱落し、
適応イコール麻痺であることが見えてくる。
自力から他力に抜け出すことによって生来刷り込まれていた
思い込みの数々が再検討され、
物事の真の姿を新たに捉え直す動きがでてくる。

うつは、現代における重要な覚醒の契機のひとつであるとみることができる。

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