本質は地域社会の活力を取り戻すためには、地域の住民側からの自発的な発生こそが成功の鍵といっている。
そして、それは他者からマネをするのが本当に難しいことである。
なぜなら地域、地域それぞれに抱えている問題は個別のものであり、それを解決するというのは個人個人の知恵の結晶であり、マネできるものではない。
それを無視して安易な模倣に走った結果、無駄な箱物公共施設が乱立するという公共事業の無駄という自体が発生したのだという論旨。
マスメディアの罪にも突っ込まれていて、公共施設、大規模商業施設を誘致して最初は盛り上げても持続性がなく失敗続き、さらに失敗してもプロパガンダで、成功事例にねじ込んでられたりする。
本で舞台になっているのは、宇都宮市、岐阜市、長野市、福島市、富山市、松江市
地方の県庁所在地だ。ここが行った施策を元にこの本は語られていく。
ここで自分が行ったことがある街は岐阜市のみだが、岐阜市が路面バスを赤字のために廃止しながら
コンパクトシティ化に舵を切った。
矛盾した政策の結果、岐阜市は荒廃している。行ってみるとわかるが、もの寂しい街がそこにあるのみだ。
織田信長を生んだこの過去の先進地域は現在は最も保守的な街になったというのが地元出身の友人の言葉だった。
つぎに観光地のブランド化戦略について意見を述べている。ブランドで成功したといえば小樽の寿司だ。ただ、そこに来ても一部の業者しか潤わない。ブランド化では観光にうまく乗れた人たちのみの成功をもたらす。そこから漏れたひとには波及していかない。そこの問題点を付いている。
個人的な私見だが下北半島に行ってきたが大間のマグロなんてものはたしかに地元民は食べない。観光客とそれに上手く乗れた人たちのみが潤う仕組みだ。滞在時間も少ない。だいたい三時間くらいだろうか。
そしてこの本の終着点は、著者の奥様の実家「甘党たむら」での経験に落ち着く。ここでは、あんこのまんじゅうが一四〇円でお茶がついてバス待ちの人々の憩いの場所になっている。コンサルタントだった著者がこの単価じゃおかしいでしょ。もっと値上げして利益をもうなくちゃと若かりし頃いっているのだが、「ここは憩いの場所、また常連客がクチコミで単価の高い商品を紹介してくれる」という義母の言葉に衝撃を受けて考えを改める。
ビジネスなんだが、ビジネスの論理ではなく別の倫理観というかもっと土着した地域との繋がり、助け合いなど、そういう理屈で仕事をしていたのだ。
さて、ここで思い浮かんだことがあった。
政府というのはビジネスではないということ。利益を出す存在ではなく、超ロングスパンで考える事。自分たちが赤字でも、周りが黒字になるということを行うための組織であることだ。
自分もそうだが、あまりにビジネスでの収支だけで物事を見すぎていたことへの反省が頭のなかに浮かんだ。政府は赤字は私益(自治体収支も含む)のみに使われていたり公益性に著しく欠いている場合に存在意義を問われるのだ。
自衛隊、法律、裁判所、これを作ること自体は利益を生まないが、回りまわって大きな安全と利益を個人個人に与えてくれる存在。それが政府、及び公共団体なのだ
読了後そんな考えを持つことになった本だった。
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